「ドラム&ベースは音楽の1ジャンルではない。僕たちの“生き方”そのものなんだ」と、ドラム&ベースのアーティストたちが話をしているのを耳にすることがよくある。
ロックは“耳”で聴く音楽、ソウルは“心”で聴く音楽、テクノは“細胞”で聴く音楽、そして、ドラム&ベースは“D.N.A.(遺伝子)”で聴く音楽だとよくいわれる。
ドラム&ベースの“生き方”とは、どういう“生き方”なのか。D.N.A.で聴く“生き方”とはどういう“生き方”なのか。
「ドラム&ベースとシャーマニズム」という枠組みで、述べてみたいと思う。
全てはスペインにある、ヨーロッパのメジャーなリゾート地・イビサ島から始まった。
時代は1987年まで、さかのぼる。
その年の9月、若き、ポール・オーケンフォルドをはじめとしたロンドンの4人のDJたちは、この島のクラブのDJたちのまわしている曲に唖然とする。それは、今まで彼らの全く聴いたことのない、とてもエクスペリエンスでダンサブルな曲だった。当時の最先端をいっていた、その4人のDJたちがロンドンのクラブでまわしていた曲といえば、ヒップホップに、ファンク、ハウス、そして、多少のニューウェーブ系の曲だった。このロンドンのDJたちを唖然とさせた曲についてのルーツは…。
1960年代のフラワームーブメントの終焉間近、1969年に、ジェファーソン・エアプレインなどとツアーを行なっていたゴア・ギルというDJが世界中を放浪の末、インドのゴア地方に辿り着いた。ゴア地方には世界中からたくさんのヒッピーアフターたちが集まってきた。1970年代を終え、1980年代に入ると、ゴア・ギルらはヨーロッパのポスト・パンクのニューウェーブやエレクトロ(YMOやクラフトワークといった初期のテクノ)、実験的なダンスミュージックのテープを手に入れ、踊りやすいように曲を作りかえていった。デペッシュモードやニューオーダーなどの曲のヴォーカルの部分をカットしたり、どこか2つ、3つのパートを何度も繰り返したりして、自分たちが踊りたいような曲を作ったりしていた。そんなオリジナルの曲がゴア地方のパーティでは定番だった。ゴア地方によく訪れていたのが、イビサ島のDJたちだった。そこで手に入れた曲はゴア地方同様、イビサ島においても、野外でかける曲には最適だった。この、ダンスをするためのみに作られた一群の曲と、それをまわすDJプレイで、当時のイビサ島は熱狂していた。その熱狂に、ロンドンのDJたちは唖然としたのだ。
この4人のロンドンのDJたちは早速、ロンドンで、このイビサ島での熱狂を再現するイベントを開催する。噂による噂で、このイベントは瞬く間に大人気となり、その同じパートが繰り返されるダンサブルな曲は、“アシッドハウス”と呼ばれるようになる。これは、ダンスの一大革命として爆発的な人気となった。1987~1988年の1年間にロンドンのクラブカルチャーは180度変わったとさえいわれている。マンチェスターやリバプールなどの郊外では、1970年代後半からウエアハウスパーティが開かれていて、ロンドンのこのムーブメントとリンクして、その勢いは凄まじいものとなった。それを助長するように、エクスタシーというドラッグが出回り、トリップしたクラヴァーたちはアシッドハウスでひたすら踊り続けた。エクスタシーを摂取すると、アルコールやたばこは要らなくなる。体に悪影響を及ぼす危険性があるからだ。そのかわり、エクスタシーを摂取すると、喉が乾くことから、ミネラルウォーターやフルーツを置くクラブが急増していき、逆に、アルコールを置くクラブは減っていった。このエクスタシーを摂取すると、どうなるか。自然や人間と親密になったり。気分が良くなったり、話をしたくなったり、踊ることが楽しくなったりする。逆に、暴力的な行動や性的な欲求は抑えられ、LOVE&PIECEの心でいっぱいになる。
この、エクスタシーを摂取して、アシッドハウスで踊るというスタイルのパーティは、いよいよ、既存のクラブだけでは収まらなくなり、そのうち、廃墟のビルや高速道路の下、もしくは、郊外の山の中などでの野外クラブ、いわゆる、レイヴとして増大していった。この時、最も人気のあった曲が、デリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」だった。どのクラブやレイヴでも一晩に5回以上はプレイされ、この曲がかかる回数の多いクラブやレイヴにクラヴァーやレイヴァーたちは群がった。ハウスとは多少違うこの音楽は、“テクノ”と呼ばれ、デリック・メイが米国のデトロイト出身のアーティストであったことから、特に、“デトロイトテクノ”と呼ばれるようになり、以後、レイヴの“顔”となっていった。郊外で開かれる、そのテクノやアシッドハウスのかかるレイヴには1万人以上のレイヴァーたちが集まるようになった。そのレイヴ・ムーブメントは、いつの間にか「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるようになる。1969年、ジミー・ヘンドリックスなどをリスペクトした、ベトナム戦争反対のための野外大コンサート「ウッドストック」をその頂点とするサイケデリックなヒッピームーブメント「サマー・オブ・ラブ」になぞって、そう呼ばれるようになった。エクスタシーでトリップしたレイヴァーたちの心は、LOVE&PIECEで満ちあふれていた。
このレイヴァーたちの多くは労働者階級だった。第二次世界大戦後、経済復興のため、英国政府は外国人労働者を大量に入国させた。レイヴァーたちの多くは、その時の外国人労働者の2世、もしくは3世である。この時、最も多く英国にやってきたのは、ジャマイカをはじめとするカリブ海諸国の国々からの労働者たちであった。1950年代までは景気もよく、彼らにとっても居心地のよい新天地であったが、1960年代後半にもなると、経済は低迷し始め、1970年代、ついに労働者たちの職は次々と失われていく、その結果、1980年代になると、その労働者たちをはじめ、2世、3世までもが仕事に就くことができず、国から支給される手当で生活せざるを得なくなる。1980年代の英国はサッチャー政権にみられるように、経済的成功と画一的なライフスタイルが気風であり、社会的な暗い部分には光は当てられなかった。これは米国のレーガン大統領、日本の中曽根総理大臣の政策と同じく、いわゆる“バブル”的なもので、後に大きな“しわ寄せ”がくる原因の政策となる。しかし、マスコミもこぞって、このサッチャースタイルを支持した。そのような押し込められた生活の中で、夢を見ることもできないカリブ生まれの黒人労働者を親に持つ子どもたちは失望していた。そんな時、まるで彗星のように突如現れたムーブメント、それがレイヴであり、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」だった。白人も、黒人も、黄色人も、階級も全く関係のないこのムーブメントは、誰でも参加することができ、誰でも自由に楽しめた。
しかし、空き地や廃墟のビルなどを無許可で占拠し、エクスタシーが出回るレイヴは、社会からの反発を買い、規模の増大とともに警察の取り締まりが厳しくなり、レイヴァーたちは反発して衝突を繰り返していたが、次第にロンドン近郊での開催は困難となっていき、レイヴの会場は郊外、北へと北上していった。
英国は島国である。この島はブリテイン島と呼ばれる。ブリテイン島には約20万年前(氷河期)から先住民族が住んでいた。彼らは“黒髪のケルト人”と呼ばれている。自然に恵まれたブリテイン島に暮らしていた彼らは食料や地位や名誉のために争いをする習慣がほとんどなかった。青銅器文化を持っていた彼らは世界七大遺跡の一つ、ストーンヘンジなどの巨石文明を築いたといわれている。紀元前7世紀頃、当時、ヨーロッパ大陸に勢力をもっていた“金髪のケルト人”、新興勢力のローマ人に追われ、ブリテイン島に辿り着いた。先住民族である“黒髪のケルト人”は争いをする習慣がほとんどなかったため、鉄器を携えた“金髪のケルト人”には大した抵抗もできずに侵略されてしまった。その結果、“黒髪のケルト人” は北へ、スコットランド、アイルランドなどへ追いやられることになる。以後の英国の歴史は侵略と制圧の繰り返しが続く。その後、紀元前1世紀頃、ヨーロッパ大陸を制圧したローマ人は“金髪のケルト人”の抵抗虚しく、ブリテイン島をも制圧する。そして410年、ローマ帝国の衰退とともに、今度はヨーロッパ大陸からアングロ・サクソン人が侵入し、“金髪のケルト人”やローマ人は殺戮されるか、もしくは辺境地帯へと追いやられた。アングロ・サクソン人は10世紀後半にイングランドを成立させた。その後、一般的にはバイキングで知られるデンマークに住むデーン人の侵略を受け、そして、最終的にはノルマン人に武力で制圧された。英国は、アングロ・サクソン人、デーン人、ノルマン人の混血である人種が住むイングランドと、“黒髪のケルト人”の子孫が住むスコットランド、ウェールズ、そして北アイルランドの4つの国が集まりなのである。
レイヴァーたちは、レイヴを開催するため、もしくはレイヴに参加するため、ブリテイン島を北上し、ついには、スコットランドや北アイルランドまで来ていた。そこで、英国政府(イングランド)から社会的、経済的な差別を受けているブリテイン島の先住民“黒髪のケルト人”の子孫たち、そして、英国政府に反抗してジプシー生活を送っているニューエイジ・トラベラーズたちと出会い、彼らの文化を知ることになる。彼らの文化とは、ブリテイン島古来のシャーマニズム(自然崇拝)である。ストーンヘンジをその聖地とする彼らは、「水にも、石にも、土にも、ベンチやペンにいたるまで、この世の全てのものには命がある。この世の全てのものが存在していて、はじめて自分も存在できる。よって、この世の全てに感謝しなければならない」というシャーマニズムの考え方をもっている。泉や洞窟、山や森に感謝して生きてきた彼らは、そこに神々が住むと信じ、後にそれが妖精の存在として生き残ることになる。彼らは、キリスト教的文化に抵抗し続けてきた。実は、この歴史は、世界の歴史そのものであるといえる。
例えば、日本は単一民族と教えられているが、全くそうではない。日本列島には古来から縄文人と呼ばれる先住民族が住んでいた。そこに、主に、朝鮮半島から渡来人と呼ばれる人たちが稲作文化とともにやってきた。彼らは弥生人と呼ばれることになる。日本列島も自然に恵まれ、縄文人は食料には不自由せず、争いをする習慣がほとんどなかったため、渡来人に侵略されてしまう。その侵略から逃れるため、南へ逃げた人たちが琉球人(沖縄の人たち)となり、北へ逃げた人たちがアイヌ人となる。よって、今、日本人と呼ばれる人たちは、英国のイングランドの例と同じく、実は純粋な日本人ではないのである。
アメリカ大陸でも、先住民であるネイティヴ・アメリカンがヨーロッパ人の侵略を受け、オーストラリアでも、先住民であるアボリジニーが同じような侵略に遭っている。英国、日本、米国、オーストラリアの場合でも、共通しているのは、島国であり、いずれもユーラシア大陸から来た人種に侵略されているという点である。ユーラシア大陸は広い。全て地続きなため、食料を確保するために、自分の民族を守るために、常に外部の敵と戦わねばならず、日常的に戦闘能力が身についてくる。自然に恵まれ、食料のために争うことのほとんどなかった“黒髪のケルト人”や縄文人、ネイティヴ・アメリカン、アボリジニーといった先住民族は、そんなユーラシア大陸の民族に勝てるわけがなかった。もう一つ、共通しているのが、前述したシャーマニズム的な考え方である。自然の恵みを大いに受けていた先住民族は自然に感謝して生活していた。その自然との共生した生活が自然崇拝(シャーマニズム)的な考え方を生んだのである。
カリブ生まれの労働者の2世、3世たちはレイヴでいっしょになった“黒髪のケルト人”の、このシャーマニズム的な考え方に多大な影響を受けた。もともとは、アフリカ大陸から奴隷として連れて来られた彼らの祖先たちもアフリカにいた頃は、自然と共生し、シャーマニズム的な観念をもっていたはずである。“黒髪のケルト人”の子孫との出会いは、黒人としての彼らに、祖先たちの魂を甦らせ、そして、それについて考えるきっかけを与えた。英国で生まれ、キリスト教を信じるのが当たり前と思ってきた彼らにとって、それは大きなショックだったにちがいない。自然の中で生活をするレイヴは、彼らが古来のシャーマニズム的な、自然と共生する生活を体験し、それについて考え、語るには最適だった。
ケルト人問題(いわゆる、北アイルランド問題)は英国政府が最も問題としているもので、この問題と、かねてから空き地などの不法占拠やエクスタシーなどのため、警察の取り締まりが厳しくなっていたレイヴ・ムーブメントの融合は、政府にとって大きな脅威となると判断され、ついに、1990年、“クリミナル・ジャスティス・アクト”という法律ができることになる。この法律は、集会、不法移住、デモ、パーティなどを取り締まるいくつかの法律が組合わさったもので、逮捕された場合には黙秘権は認めないという条項も含まれている。“クリミナル・ジャスティス・アクト”の中には、「野外でレペティティブ・ビーツ(繰り返す音楽、いわゆる、ハウスやテクノのこと)という特徴を持つ音楽を聴いている10人以上の団体を解散させる権利を警察に与える」という条項も含まれていた。この“クリミナル・ジャスティス・アクト”により、事実上、英国国内でのレイヴの開催は禁止となった。
その後、警察に相当の報奨金を渡してレイヴを開催する主催者が現れた。報奨金の割合が高いため、主催者はスポンサーをつけなければならなかった。エクスタシーによって、レイヴ、クラブの場から撤退せざるを得なかったアルコール産業が巻き返しを謀るため、スポンサーとなることが多かった。こうして、警察公認の大規模なレイヴは商業化し、本来の姿とはかけ離れたものとなっていった。レイヴ・ムーブメントを支えた多くのレイヴァーたちはこのような状況にうんざりし、次第に再びロンドンのクラブに戻ってくるようになった。レイヴ、エクスタシー、クリミナル・ジャスティス・アクト、そして、シャーマニズムなどを体験した彼らは、それらについて考えるようになり、それを表現するために音楽作りを始めるようになる。コンピュータを使って1人で簡単に曲を作れる時代になっていた。レイヴ・ムーブメント後半、DJたちがかける曲はハウスやテクノのリズムを切り刻んでビートを再構築していく実験的なブレイクビーツが主流となっていた。彼らは自宅でエクスペリエンスなブレイクビーツを、テクノロジーを駆使して作り出し、自分なりのシャーマニズムを表現し始めた。
その頃、ロンドンのレゲエのクラブシーンでは、33回転のレコードを45回転でかけるパーティが開かれ、人気を博しており、回転数を早めたオリジナルのレコードが作られるようになっていた。不思議なことに、この高速のレゲエと、レイヴを通過した実験的なブレイクビーツは酷似していた。もともと、ジャマイカなど、カリブの島々出身の親を持つ子どもたちが作り出す音楽は、親の影響を受け、レゲエ色が強い、もしくは、レゲエのリズムでもっと踊りやすいかたちで表現された。この2つのジャンルは全く違うところから発生したにもかかわらず、同じリズムであったことから“ジャングル”と呼ばれるようになる。ロンドンにあった日曜の朝10時から始まる「ロースト」というクラブでMC-5IVE Oがマイクで「Hardcore Jungle!!」という言葉を使ったのが、その由来といわれている。UKアパッチとジェネラル・リーヴィーの「INCREDIBLE」などの商業的ヒットにより、ジャングルは一躍、ヒットチューンに躍り出た。しかし、ヒットしたのは、いずれも高速なレゲエ、いわゆるラガ系のジャングルであり、レイヴを通過したブレイクビーツではなかった。クオリティは重視されず、売れるためのみにつくられた、これら一連のラガ系ジャングルは1993~1994年の1年間でほぼ消費しつくされ、次第に影をひそめる結果となる。
その頃、地道に実験的なブレイクビーツを作り続けていた元レイヴァーたちはおそるべきクオリティの高い曲を作っていた。それまではリズムが似ているというだけでジャングルと呼ばれていた、一連のこのような曲は、ジャングルとはかけ離れたものとなっていた。無駄を一切排除したドラムとベースのみを基本の音として構成され、オリジナルのリズムを刻むその音楽は“ドラム&ベース”と呼ばれるようになる。「ヘヴン」というクラブで、レイヴで最も有名なDJだったグルーヴライダーとファビオは「RAGE」というドラム&ベースのパーティを開催していた。このドラム&ベースとしては草分け的なパーティに驚愕した、元ストリート・アーティストでニューヨークで活躍していたゴールディーは、自ら曲を制作、95年、「TIMELESS」というアルバムを発表。そのあまりにクオリティの高い作品は世界中の音楽評論家を驚かせた。アフリカのウガンダ出身の親を持つL.T.J.ブケムは、1990年に初めて「DEMON'S THEME」というブレイクビーツ(おそらく、最も初めのドラム&ベース)を発表して以来、レイヴ・ムーブメントの経験を十分に活かし、その結果、「LOGICAL PROGRESSION(論理的な進化)」という“旗”をかかげ、ドラム&ベースは“LOGICAL PROGRESSION”であるべきで、これに賛同する者がドラム&ベースを理解する者となっていった。ここに、「ドラム&ベースは音楽の1ジャンルではない。“生き方”そのものだ」という言葉が生まれてくる。
「レイヴによって、音楽で、ダンスで、エクスタシーで盛り上がることは経験したが、その後、いったい、何が残ったか。結局、何も残らなかったのではないか。もっと冷静な、論理的な音楽の捉え方も必要なのではないか。クオリティの高い曲を作って、シーンを育てていくことが大事なのではないか。また、今まで、音楽というものは過去のものを模倣することが多く、それがよしとされてきたが、もっと未来に向けた、進化し続けるオリジナリティの高い曲をつくっていくことも重要ではないか。そして、何より、今の時代にシャーマニズムを提唱することが義務なのではないか」。
このような疑問をドラム&ベースは投げかけているのである。
世紀末の今、社会不安、エイズや各種ウィルスなどの疫病、環境破壊といった、暗い雰囲気の漂うこの世の中で、ドラム&ベースは唯一、明るい未来を表現しているようにみえる。そのシャーマニズム的発想で表現しているドラム&ベースは、21世紀の真の在り方を教えてくれる。石にも、水にも、ベンチにも、ペンにも命があり、それら全てに感謝するというシャーマニズム的発想は実は今、最先端の科学で、その考え方がこの世界の真の法則であり、21世紀の思考であるといわれているからである。
量子力学を基礎とした波動性科学という最先端の科学がそれを提唱している。人間は約60~70兆の細胞から成っている。1つの細胞は数百億の分子で、その分子はまた数百億の原子から成っている。原子は原子核と電子から成り、電子は原子核の周りを回転している。原子核はさらに粒子、クウォークなどから成っており、それらは存在自体が“動”であり、エネルギーを発しており、そのエネルギーが波動である。この世の中(3次元、4次元になど、次元を問わず)は、“虚質”が充満しているといわれている。存在している波動は、常に虚質を動かし、周りに影響を与える。例えば、池の中に水が充満しているようなもので、そこに石を投げると波紋が拡がる。投げられた石は小さくとも、波紋は限りなく大きく拡がる。人間や動物やペンが出す波動も同じだというのだ。全てのものが同じ原子や粒子から構成されているのであれば、その波動は全てに影響するわけだ。例えば、人間がムカッとした気持ちになると、粗い波動が出て、それが周りのあらゆるものに影響する。そうすると、車やステレオなどが壊れたりするのである。身に憶えがある人も多いだろう。逆に、やさしい、感謝する気持ちでいれば、細かい波動が出て、その波動は全てのものに浸透し、そして、動かし、自分の思った通りになるのである。人間と同じく、動物、植物、石やテレビ、車など、この世のあらゆるもの、水や空気でさえ、個々の波動を出して影響し合っているとすれば、人間に命がある以上、ほかのあらゆるものにも命があるということになる。
これは、まさに、シャーマニズム的発想と同じである。物質である肉体を超えた存在である“意識”でさえも、波動で共鳴し合っており、肉体が滅んだ後の“意識”、いわゆる“霊”の存在も波動性科学では確認できるという。シャーマニズムでは、死後も魂は生き続けるという観念があり、これも共通している。波動性科学では、これら一連の波動を機械を使い、数値で表すことができるという。波動性科学によって立証されつつあるシャーマニズムの本質とは、「この世の全てのものには命があり、この世の全てのものが存在して、お互いに影響し合って、はじめて自分が存在している。よって、この世の全てのものに感謝しなければならない」といえるだろう。
“黒髪のケルト人”や縄文人、ネイティヴ・アメリカンやアボリジニーはこのような法則、自然との共生を当然のように知っていて、実践してきた。この観念が、今、人類につきつけられている環境問題を解決する一つの手段だと考えられている。シャーマニズムを体験し、未来へと向かうドラム&ベースの方向性は、まさに、この手段と合致する。また、自然崇拝だけでなく、霊の存在さえも認めるシャーマニズムは、祖先を非常に尊ぶ。
ドラム&ベースは“黒髪のケルト人”とアフリカ大陸の祖先の心のリズムを今に伝え、それは、D.N.A.とともに未来へと向かっている。実際、ドラム&ベースの曲名をみれば、“霊”の存在を肯定するような名前が多いことに驚かされる。オムニトリオの「HAUNTED SCIENCE(心霊科学)」、ドック・スコットの「THE UNOFFICIAL GHOST(認められない亡霊)」、DJラップの「SPIRITUAL AURA(霊的オーラ) 」などなど。
今でも、ドラム&ベースはそのジャンルを細分化させ、進化・増殖を続けている。宇宙と自然を表現するアートコア、この世の内面を表現したダークコア、喜びを表現するハードステップ、近未来を表現するサイバー、そして、ジャズステップなどなど。
イビサ島から始まり、レイヴ、アシッドハウス、テクノ、エクスタシー、そして、シャーマニズムと、この10年間で英国の若者たちは多くの経験をしてきた。その多くの経験が土台となり、はじめて、“LOGICAL PROGRESSION”という観念が基盤となったドラム&ベースが成立しているのである。ドラム&ベースは、単なる音楽の1ジャンルではない。多くの経験を通して学んだ彼らの“生き方”そのものなのである。