レインボーパレード誕生秘話
世紀末、レイヴ・カルチャーと地球が出会った


1997年12月、京都で「地球温暖化防止京都会議(COP3)」が開催された。自動車の排気ガスや工場から排出される二酸化炭素の排出量の増加が地球温暖化を助長しているとして、日本、米国、EU、ロシアの先進国が1990年を基準に削減値を決めるための国際会議だった。
レインボーパレードはその削減値をできる限り高くすることをアピールするための一つの“行動”として開催された。このような“行動”がなぜ、レイヴ・カルチャーと融合したのか。なぜ、レインボーパレードが、渋谷、原宿の街を大音量バキバキのサウンドシステムを搭載したテクノ・カーに先導され、ダンスしてパレードするという全く新しい“行動”になったのか。
レイヴカルチャーと地球環境問題が出会った歴史をひもといてみよう。

時代は、1987年にまでさかのぼる。
DJポール・オーケンフォルドをはじめとする4人のロンドンのDJたちが、スペインのイビサ島というメジャーなリゾート地を訪れた時、その島のDJたちがまわしている曲に唖然とした。それは、とてもエクスペリエンスでダンサブルな曲だった。このイビサ島は、インドのゴア地方と深い関わりがあった。1960年代後半のフラワームーブメント以降、世界中の若者たちはゴア地方に住み着き、コミューンをつくっていた。英国やドイツから入手したニューウェーブの曲のヴォーカル部分を排除し、同じフレーズを繰り返し、踊るためのみにつくられた曲で、毎晩のようにダンスパーティを開いていた。そうした曲がイビサ島に流れ込んでいた。
英国の4人のDJたちは、早速、ロンドンに戻り、それらの曲をまわすパーティを始めた。ちょうどその頃、エクスタシーというドラッグが出回り、それらの曲でエクスタシーを摂取してトリップした状態でダンスするというパーティは驚異的な勢いで拡まっていった。それらの曲は「アシッドハウス」と呼ばれるようになり、ダンスの一大革命として爆発的な人気となった。アシッドハウス・パーティは室内のクラブ等では収まらず、高速道路の下や廃墟のビル、郊外の野原等での野外クラブ、いわゆるレイヴとして増大していった。1万人以上が集まる、いくつものレイヴが全英的に拡がっていくと、このムーブメントはいつの間にか、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるようになる。1960年代末、ジミー・ヘンドリックス等をリスペクトした、ベトナム戦争反対のための野外大コンサート「ウッドストック」をその頂点とするサイケデリックなヒッピームーブメント「サマー・オブ・ラブ」になぞって、そう呼ばれるようになった。
レイヴで最も人気のあったのは、デリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」という曲で、この曲はアシッドハウスと多少違っていたことと、デリック・メイが米国のデトロイト出身であったことから、「デトロイトテクノ」と呼ばれるようになり、以後、レイヴの“顔”となっていった。
しかし、エクスタシーを摂取したり、不法占拠して行なわれるレイヴは社会的反感をかい、警察とレイヴァーたちとの抗争に発展する。警察はドーベルマンを放したり、サーチライトの車を用意したり、こん棒を使ってレイヴァーたちを取り押さえたりして、レイヴの開催を阻止しようとした。その抗争から逃れるために、レイヴはロンドン郊外から、スコットランドや北アイルランドへと北上していった。
英国はブリテイン島から成っていて、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4カ国から構成されている。もともと、ブリテイン島にはケルト人が住んでいた。そこへ大陸からイングランド人が来て占領していくという歴史があり、先住民族であるケルト人は北アイルランドやスコットランドの一部に移住することを余儀なくされ、社会的、経済的な差別を受けていた。1980年代後半というと、弱者軽視のサッチャー政権が猛威を振るっていた時代だった。不満をもっていたのは先住民族だけではなかった。レイヴァーである英国の若者たちの多くも同じく不満をもっていた。なぜなら、レイヴァーたちの多くが第二次世界大戦後に英国の経済復興のために、主にカリブ海諸国から受け入れられた労働者を親に持つ黒人の二世、三世で、この時代は経済的に非常に貧困だったからである。そんなレイヴァーたちがレイヴ会場の北上にともなって、ケルト人たちと出会うことによって、レイヴは新しい方向性を示し始める。ケルト人をはじめ、先住民族はシャーマニズム、自然と共生した自然崇拝の文化をもっている。レイヴは数日間、数週間、山の中など、自然の中で暮らすので、レイヴァーたちは、そのようなケルト人の価値観、自然との共生について考えるようになる。
そして1990年、レイヴに対して、よく思っていなかった英国政府は、レイヴムーブメントが、英国の最大の問題である北アイルランド問題とも融合しつつあるということに懸念を示し、「クリミナル・ジャスティス・アクト」という法律を制定した。繰り返すビート(ハウスやテクノ)で10人以上で踊っている団体に対して警察は逮捕でき、しかも黙秘権は認めないという非常に厳しい法律。こうして、英国内でのレイヴの開催は実質上、禁止となった。
その後、警察に相当額の報奨金を払って行なえる商業的なレイヴだけが残ったが、そのような状況に嫌気がさしたレイヴァーたちの多くはレイヴの元祖、インドのゴア地方に大挙して移動した。こうして、ゴア地方のインド文化とレイヴカルチャーが融合してできたのが、サイケデリック・トランスというジャンル。英国国内に残ったレイヴァーたちがロンドン等のクラブで発展させていったジャンルがドラム&ベースだった。
しかし、レイヴは意外な場所で再燃し始める。英国でレイヴが盛り上がっていた1989年はドイツのベルリンの壁が崩壊した年でもあった。ドイツ人は英国で盛り上がっていたムーブメントを受け入れ、特に、テクノをリスペクトした。東側には廃墟のビルや空き地が山ほどあり、そこで毎晩のようにレイヴが開かれていった。ドイツでは、レイヴは“平和の象徴”として拡がっていき、毎年、世界中から100万人以上のテクノ・フリークたちがベルリンに集まる「ラブパレード」へと発展していった。そして、このムーブメントはヨーロッパ全土に拡がっていった。
1992年、ユーゴスラビア内戦が始まり、ヨーロッパの若者たちは当時、浸透し始めていたインターネットを通じ、情報交換しながら、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ周辺で、オランダの若者たちが中心となり、戦火の中でレイヴを開催していった。レイヴは一時の休息の場として、敵同士であったセルビア人やクロアチア人等、人種に関係なく集うことができた。このような地道な努力の積み重ねで、間接的にではあるが、内戦を終結に向かわせたという説もある。1960年代の「サマー・オブ・ラブ」はベトナム戦争を終結させることはできなかったが、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」は間接的にでもユーゴ内戦を終わらせたということで、ヨーロッパの若者たちはテクノというジャンルに自信をもっている。
以上、みてきたように、大陸を中心としたヨーロッパでは、テクノは“平和の象徴”で、英国では自然との共生“環境の象徴”という位置づけがある。
レイヴムーブメント後期、日本でもこのジャンルの曲は紹介され始めていた。1989年、渋谷の「CAVE」というクラブで毎週土曜日、DJ K.U.D.Oが「トランスナイト」を開始、レイヴの曲をリアルタイムでまわしていた。その後、西麻布の「YELLOW」に場所を移し、そこで一気に拡がっていく。その後、石野卓球、田中フミヤなどのテクノDJたちが人気を博していく。
その流れともう一つ、英国で実際にレイヴを体験したり、インドのゴア地方でレイヴを体験した人たちが地道にクラブでパーティを開いたり、伊豆地方等で小規模なレイヴを開催していくという流れも並行してあった。その2つの流れを融合させたのが、1996年8月、富士山の日本ランドHOW遊園地で行なわれた「RAINBOW2000」だった。18,000人を動員した野外大テクノイベントは日本では画期的な本格的なレイヴだった。
そして、1997年、地球温暖化防止京都会議の開催の年。地元、関西では二酸化炭素の排出量の削減値を上げようと大きな盛り上がりをみせていたが、東京をはじめ関東ではほとんど無関心だった。そこで、現レインボーパレード実行委員会は「是非、若者たちを中心にアピールしていかなければならない」として、それまでにレイヴを開催していて、環境問題に関心の高かった「RAINBOW2000」オフィスの協力を得て(レインボーパレードと、RAINBOW2000は別団体)、若者たちの集まる渋谷、原宿で環境問題を訴えるパレードをやろうということになった。
第1回目、1997年は参加者6 ,000人、そして、2回目の1998年は、環境オーガナイザーの伊藤吉徳氏を中心とした多くの若者たちが中心となって制作され、2日間で25,000人の参加があった。1年目のテクノ系はサイケデリック・トランス・カーのみのパレードだったが、2年目は、それにドラム&ベース、ミニマル・テクノ等、5台のテクノ・カーをほとんど全てボランティアで手づくりで用意した。参加者の多くが音楽目当ての若者たち。しかし、レインボーパレードはあえて、そのような若者たちをターゲットにしている。若者たちに音楽を通して、少しでも環境の問題に関心をもってもらうことを目的にしている。環境問題に関する各種団体、NGO等はたくさんあるが、若者たちに環境問題に関心をもってもらうため、こうした活動をする団体は日本では皆無に等しい。レインボーパレードに参加して、少しでも興味をもって、そこから、ダイオキシン問題や自然保護、動物保護等、さまざまな問題を知るきっかけにしてもらう、そこから、いろいろなNGO等を紹介していく。
例えば、日本の商社等が東南アジアの国で森林を伐採して、それにまつわり、森林と共に平和に暮らしてきた人たちが強制的にその土地を追われ、生きていくために都会のスラムで窮乏の生活を送らなければならなかったりしている現実がある。ところが、何も関心も持たない若者たちがそのような商社等に就職したら、何も考えずに上司と同じことをやり続けるだろう。しかし、若者たちが関心のある音楽等から少しでもこのような問題を知り、頭の片隅にでも残っていたとしたら、その人が会社の中で決定権をもつような立場になったとしたら、天然の森林を伐採するか、植林された人工的な森林を伐採するかという選択を迫られた時、環境問題、人権問題に配慮した、植林された森林を伐採することを選択するのではないか。日常生活の中ででも、一つ一つの小さな選択の中で環境を配慮した決定を一人一人がやっていくことが大事なのではないか。
今、都会の多くの若者たちはアレルギーやアトピー、さまざまなウィルスで苦しんでいる。お気に入りのDJがプレイするのに体調が悪くて、クラブに行けない、そんな声を最近、よく聞く。これにしても、間接的にでも環境の悪化が原因ではないだろうか。本当に環境が改善されて、クラブ遊びを楽しむ、それが21世紀のカルチャーなのではないだろうか。そのための第一歩、“環境問題”を知ることこそが「レインボーパレード」なのである。