ドラム&ベースは、21世紀のソウル・ミュージックだといわれて久しいが、それを語る上でよく使われる、いくつかの言葉がある。
それは「他人を信じるな、自分だけを信じろ」、「atmosphere(雰囲気、その場の空気)を感じろ」というものだ。
そして、「ドラム&ベースとは何か」とアーティストたちに質問すると、必ず返ってくる答えは、「DRUM&BASS IS “A WAY OF LIFE”(ドラム&ベースは、生き方そのものだ)」。
では、ドラム&ベースの生き方とは、どういう生き方なのか。
さまざまな困難を乗り越えながら、英国の若者たちが、自分たちの力でつくってきたドラム&ベースの歴史の中から、それを探ってみたい。
全ては、スペインにある、ヨーロッパのメジャーなリゾート地、イビサ島から始まった。
時代は、1987年までさかのぼる。その年の9月、若き日のポール・オーケンフォルドをはじめとする、ロンドンのDJであった、4人の若者たちは、イビサ島を訪れ、その島のクラブのDJたちが選曲していた、それまで聴いたことのない“音の洪水”にカルチャー・ショックを受けた。それは、とんでもなく、エクスペリエンスでダンサブルな曲ばかりだった。当時の最先端をいっていた、その4人のロンドンのDJたちがパーティでかけていた曲といえば、ヒップホップ、ファンク、ハウス、そして、ニューウェーブ系の曲だった。
イビサ島のパーティでかかっていた曲について、若干の説明をしておこう。
1960年代のいわゆる、フラワームーブメントの終焉間近、1969年にジェファーソン・エアプレインなどといっしょに世界ツアーをまわっていたゴア・ギルというDJがいた。彼は、その後、世界中を放浪の末、インドのゴア地方に辿り着いた。ゴア地方には、世界各国から多くのヒッピー・アフターたちが集まっていた。音楽と精神の真理を求め、彼らはコミューンをつくり、共同生活をし、そこに定住した。1970年代を終え、1980年代に入ると、ゴア・ギルらは、ヨーロッパのポスト・パンクのニューウェーブやエレクトロ(YMOやクラフトワークといった初期のテクノ)の曲を手に入れ、踊りやすいように曲を作りかえていき、実験的なダンスミュージックの制作を試みた。デペッシュモードやニューオーダーなどの曲のヴォーカルの部分をカットしたり、同じパートを何度も繰り返すようにリミックスしては自分たちが踊りやすいように加工し、究極のダンスミュージックを構築していた。そのようなオリジナルの曲でダンスを楽しむのが、ゴア地方のパーティでは定番だった。
ゴア地方をよく訪れていたのが、1970年代、ヨーロッパのヒッピーたちの聖地で、当時、“ヌーディスト・ビーチ”として有名だった、イビサ島のDJたちだった。そこで、イビサ島のDJたちが手に入れた曲は、ゴア地方同様、イビサ島においても、野外でかけるには最適だった。このダンスをするためだけに作られた一群の曲と、それをまわすDJプレイに、イビサ島は熱狂していた。
そのイビサ島での熱狂に、4人のロンドンのDJたちは完全にノックダウンされたのだった。この4人のDJたちは、ロンドンに戻り、早速、このイビサ島での熱狂を再現するパーティを開催した。はじめは、彼らの母校である中学校の体育館を使って、スタートした。この、ロンドンでは画期的なパーティは、噂による噂で、瞬く間に、大人気となり、その同じパートが繰り返されるダンサブルな曲は、“アシッドハウス”と呼ばれるようになった。そして、それは、ダンスや音楽といった枠を超え、ひとつのムーブメント、一大革命として爆発的な人気となった。1987年~1988年の1年間で、英国の音楽を中心とするカルチャーは180度、変わったとさえいわれている。
マンチェスターやリバプールなどの郊外では、1970年代後半からウエアハウス・パーティが開かれていて、ロンドンのこのムーブメントとリンクして、その勢いは凄まじいものとなっていった。
それを助長するように、ちょうどその頃、エクスタシーというドラッグが大量に出回り、トリップしたクラヴァーたちはアシッドハウスでひたすら踊り続けた。エクスタシーを摂取すると、アルコールやタバコは必要としなくなる。その替わりに、喉が乾くことから、ミネラルウォーターやフルーツを置くパーティが急増していった。エクスタシーを摂取すると、気分がよくなり、人と話したくなったり、踊ることが心地よくなったりする。逆に、暴力的な行動や性的な欲求は抑えられ、LOVE&PIECEの心でいっぱいになる。
このエクスタシーを摂取して、アシッドハウスで踊るというスタイルのパーティは、クラヴァーの数の増大により、既存のクラブなどだけでは収まらなくなり、そのうち、廃墟のビルや高速道路の下、もしくは、郊外の山の中などで、野外クラブ、いわゆる、レイヴとして増大していった。
この時、このムーブメントにおいて、最も人気のあった曲が、デリック・メイの「STRINGS OF LIFE」だった。どのパーティでも、必ず一晩に5回以上はプレイされ、この曲がかかる回数の多いパーティにクラヴァーやレイヴァーたちは殺到した。ハウスと多少違うこの音楽は“テクノ”と呼ばれ、デリック・メイが米国のデトロイト出身のアーティストであったことから、特に“デトロイト・テクノ”と呼ばれるようになり、以後、このムーブメントの“顔”となっていった。
郊外で開かれる、そのテクノやアシッドハウスのかかるレイヴには、1万人以上のレイヴァーたちが集まるようになった。このレイヴ・ムーブメントは、いつの間にか、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるようになる。1969年に3日間に及び米国で開催された、ジミー・ヘンドリックスなどをリスペクトした、ベトナム戦争反対のために全世界から約100万人が集まった伝説の野外大コンサート「ウッドストック」になぞって、そう、呼ばれるようになった。1980年代末、20年の時を超え、今度は英国の地で、エクスタシーでトリップしたレイヴァーたちの心はLOVE&PIECEで満ち溢れていた。
このレイヴァーたちの多くは、労働者階級だった。第二次世界大戦後、国の復興のため、英国政府は外国人労働者を大量に入国させた。レイヴァーたちの多くは、その時の外国人労働者の2世、もしくは3世である。この時、最も多く英国にやってきたのは、ジャマイカをはじめとするカリブ海諸島の国々からの労働者たちであった。1950年代までは景気もよく、彼らにとって居心地のよい新天地であったが、1960年代後半にもなると、経済は低迷し始め、1970年代、ついに労働者たちの職は次々と失われていく。その結果、1980年代になると、その労働者たちをはじめ、2世、3世までもが職に就くことができず、国から支給される手当てで生活せざるを得なくなる。1980年代の英国は、サッチャー政権にみられるように、経済的成功と画一的なライフスタイルが気風であり、社会的な暗い部分には光は当てられることがなく、“バブル的”なもので、後に大きな“しわ寄せ”がくる経済政策を数々、実行していた。メディアもこぞって、このサッチャースタイルを支持した。そのような押し込めらた生活の中で、カリブ生まれの黒人労働者を親に持つ子どもたちは失望していた。
そんな時、まるで彗星のように突然現れたムーブメント、それがレイヴであり、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」だった。白人も黒人も黄色人も階級も全く関係のない、このムーブメントは誰でも参加することができ、誰もが自由に楽しめ、誰でも辛い日常生活を忘れることができた。
しかし、空き地や廃墟のビルなどを無許可で占拠し、エクスタシーが出回るレイヴは、社会からの反発をかい、規模の拡大とともに警察の取り締まりが厳しくなっていった。レイヴァーたちは警察との衝突を繰り返していたが、次第にロンドン近郊での開催は困難となっていき、レイヴ会場は郊外へと移らざるを得なかった。警察のレイヴァーたちへの対応は日々、過激になっていき、警察犬を放したり、サーチライトを照らしたり、こん棒で殴るなどして、レイヴの開催を阻止し出した。それでも、レイヴァーたちはレイヴをやめようとはしなかった。
その時、レイヴでかかる曲はアシッドハウスやテクノから、よりスピードの早いハードコアへと変化していった。それはまるで、警察への戦闘心を表しているかのようだった。DJたちはテクニクス1210のターンテーブルをこじ開け、ピッチコントロールのレジスターを改造して、限界までレコードのスピードを上げていた。また、ハウスやテクノのリズムを切り刻んでビートを構築していく実験的なブレイクビーツもレイヴでの主流となっていった。レイヴでのブレイクビーツのパイオニアとしてのDJには、グルーヴライダー、ファビオ、ミッキー・フィン、ジャンピング・ジャック・フロスト、DJハイプ、ケニー・ケン、ランドル、DJ SSなど、後にドラム&ベースの第一人者となる、そうそうたるメンバーがいた。
ソウルⅡソウルはレゲエとヒップホップを融合させてメジャーシーンを一世風靡したが、この手法はレイヴでも受け入れられ、ハードコアとレゲエを融合させたラガ・ハードコアが生まれた。これが後のジャングルの原型となる。
英国は島国である。このブリテイン島と呼ばれる島には、約20万年前(氷河期)から、ケルト人という先住民族が住んでいた。ブリテイン島の歴史は、侵略と制圧の繰り返しの歴史である。ローマ人、アングロ・サクソン人、ヴァイキングで知られるデンマークに住んでいたデーン人、そして、ノルマン人などが次々とブリテイン島を支配しにやってきた。結局、彼らの混血である子孫たちがイングランドを成立させ、先住民族であったケルト人は、主に北方の辺境の地へ追いやられ、スコットランド、北アイルランド、そして、ウェールズという独立国家を成立させた。現在、ブリテイン島から成る英国とは、イングランド、スコットランド、北アイルランド、そして、ウェールズの4つの国の集まりなのである。
「セカンド・サマー・オブ・ラブ」ムーブメントのレイヴァーたちは、レイヴを開催するため、もしくは、参加するため、イングランドから、ブリテイン島を北上し、遂には、スコットランドや北アイルランドまで来ていた。そこで、英国政府(イングランド)から社会的、経済的な差別を受けているブリテイン島の先住民族であるケルト人たちと出会い、彼らの文化、そして、英国の歴史の真実を知ることになる。
ケルト人の問題、いわゆる、北アイルランド問題は、英国政府が最も危惧しているもので、かねてから、空き地等の不法占拠やエクスタシーなどのため、警察と衝突していたレイヴ・ムーブメントは、政府にとって大きな脅威となると判断され、1990年、遂に、“クリミナル・ジャスティス・アクト”という法律ができることになる。この法律は、集会、不法居住、デモ、パーティなどを取り締まる、いくつかの法律が組み合わされたもので、逮捕された場合には黙秘権は認めないという厳しいもの。“クリミナル・ジャスティス・アクト”の中には、「野外でレペティティブ・ピーツ(繰り返す音楽、いわゆる、ハウスやテクノのこと)という特徴を持つ音楽を聴いている10人以上の団体を解散させる権利を警察に与える」という条項も含まれていた。この“クリミナル・ジャスティス・アクト”の制定・施行により、事実上、英国国内でのレイヴの開催は禁止となった。
しかし、レイヴ・ムーブメントは、意外な場所で再燃し始める。英国でレイヴが盛り上がっていた1989年は、ドイツのベルリンの壁が崩壊した年でもあった。ドイツ人は、その英国でのレイヴ・ムーブメントを受け入れ、特に、テクノをリスペクトした。東側には、廃墟のビルや空き地が山ほどあり、そこで、毎晩のようにレイヴ・パーティが開かれていった。ドイツでは、レイヴは“平和の象徴”として拡がっていき、毎年、世界中からおよそ100万人以上のテクノ・フリークたちが集まる「ラブパレード」へと発展していった。そして、このムーブメントはヨーロッパ全土に拡がっていった。
1992年、ユーゴスラビア内戦が始まり、ヨーロッパの若者たちは当時、浸透し始めていたインターネットを駆使し、情報交換しながら、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ周辺でオランダの若者たちが中心となり、戦火の中でレイヴを開催していった。レイヴは一時の休息の場として敵同士であったセルビア人やクロアチア人等、人種に関係なく集うことができた。このような地道な努力の積み重ねで、間接的にではあるが、内戦を終結に導いたという説もある。1960年代の「サマー・オブ・ラブ」はベトナム戦争を終結させることはできなかったが、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」は間接的にでもユーゴ内戦を終わらせたということで、ヨーロッパの若者たちはこのムーブメントに精神的自信を持った。
そんな、ヨーロッパ各国の事情とは裏腹に、レイヴ・ムーブメント発祥の地であるにも関わらず、レイヴの開催が禁止となってしまった英国では、とうとう、警察に相当の報償金を支払ってレイヴを開催する主催者が現れ始めた。その報償金があまりにも高かったため、主催者はスポンサーをつけなければならなかった。エクスタシーのため、レイヴやクラブのマーケットから撤退せざるを得なかったアルコール産業などが巻き返しを謀るため、スポンサーになることが多かった。こうして、警察公認の大規模なレイヴは商業化し、本来の姿とは、かけ離れたものとなっていった。レイヴ・ムーブメントを支えた多くのレイヴァーたちは、このような状況にうんざりし、次第に、ロンドンのクラブに戻ってくるようになった。
時代は、コンピュータを使って、以前に比べて、はるかに容易に音楽を作れるようになっていた。レイヴ・ムーブメント後半、DJたちがかける曲は、ハウスやテクノのリズムを切り刻んで、ビートを再構築していく、実験的なブレイクビーツが主流になっていた。彼らは、自宅でコンピュータ・テクノロジーを駆使し、究極的でエクスペリエンスなブレイクビーツを制作し始めていた。
その頃、HEAVENというクラブでは、レイヴでも有名なDJだったグルーヴライダーとファビオがRAGEというパーティを開催していた。2人のDJはターンテーブルのピッチシフトを最速に設定し、ブレイクビーツが歪むまで早さを上げていた。全てが実験的でエキサイティングだったこのパーティに入場するためには、3時間以上、並ばなくてはならなかった。英国中からファンを引き寄せたRAGEだったが、そのファンの中には、後に女性2人組のドラム&ベースDJとして有名となるケミストリー&ストームに連れて来られた、米国でグラフィック・アーティストとして活躍し、後にドラム&ベースの“顔”となるゴールディーの姿もあった。
1993年、前述したサッチャースタイルの“しわ寄せ”により、英国は戦後最大の大不況にみまわれた。生活費と失業率が急上昇し、詐欺を中心としたブラックマーケットが発展、ドラッグ売買、盗難、失業手当詐欺などは当たり前となっていった。レイヴァーだった労働者階級の過密地区に住む若者たちは、このようなライフスタイルを生きるしかなかった。「誰も信じるな。自分だけを信じろ」というドラム&ベース・アーティストたちがよく口にする言葉はこのような地下活動的なライフスタイルから生まれたものだった。
このようなatmosphere(時代の雰囲気)をブレイクビーツ・アーティストたちは、“ダーク”という最も暗黒のサウンドで表現した。RAGEの信奉者だったゴールディーは、このatmosphereを表現するために「TERMINATER」というマイナーコードをふんだんに盛り込み、渦巻くような音空間を演出した、ダークの曲を作った。この曲では、さらに「The Ghosts of my Life(私に取り憑いた霊)」というフレーズが繰り返され、社会の雰囲気を映し出した。
RAGEが終わってしまった後、ブレイクビーツの塞となったのはTHE PARADISE CLUBというクラブで行なわれてたA.W.O.L.(A WAY OF LIFE=これが自分たちの生き方だ)」というパーティだった。ランドル、ミッキー・フィン、ケニー・ケンなどがDJを務めるこのパーティでは、エクスタシーまみれのレイヴとは正反対に、ノー・ドラッグでビートに集中して踊るのがマナーだった。ここでも社会のatmosphereが反映され、“ダーク”の嵐が吹き荒れていた。A.W.O.L.でパワープレイを繰り広げていたDJブロッキーは、当時の様子を次のように振り返る。
「それまでは、みんな、エクスタシーを摂って踊っていたよ。でも、ある日、エクスタシーが原因で仲間の一人が死んだんだ。それからはエクスタシーを控えて、その代わりにフィーリングを大事にするようになった。音を理解するようになってきたんだよ。もう、ドラッグはいらないという気持ちにまでなった。この時期ぐらいから、みんな、音楽に感謝するようになったんだ」。
しかし、一方では、ダークのブレイクビーツのパーティで、一部のクラヴァーの間で、エクスタシーよりも効果の高い、クラックが流行し、ナイフによる盗難事件が相次いだ。メディアは興味本位にこの事件に飛びつき、ブレイクビーツのパーティは危険だと繰り返し報じた。クラブによっては「NO BREAKEBEATS ZONE(ブレイクビーツ禁止)」という札を貼ったところも現れたほどだった。このようなことがあり、ブレイクビーツ・シーンには、メディアや部外者を許さない独自の閉鎖性が生まれた。
その頃、前述した、ハードコアとレゲエが融合したラガ・ハードコアは、“ジャングル”として、そのシーンを確立し出していた。ロンドンにあった、日曜日の朝10時から始まるROASTというクラブで、MC 5IVE-Oがマイクで「HARDCORE JUNGLE!!」という言葉を使ったのが、その由来といわれている。1993年暮れ、シャイFXとUKアパッチは「ORIGINAL NUTTAH」という曲をつくったところ、物凄い反響を呼び、レコードショップには注文が殺到した。1994年の夏には全英でリリースされ、ジャングル初の大ヒットを記録し、トップ20に入った。同じ夏、Mビートとジェネラル・リーヴィーは「INCREDIBLE」をリリース、すぐにトップ10に入る大ヒットとなり、1994年の夏は「サマー・オブ・ジャングル」と呼ばれ、メジャーなレコード会社は似たような商業的な曲を数多くリリースしていった。
ここで、偶然の一致が起こる。ハードコアとレゲエが融合したラガ・ハードコア“ジャングル”と、高速のブレイクビーツのリズムが酷似してきたのである。この2つのジャンルはレイヴ衰退後、全く違う過程を経てきたにも関わらず、似たリズムであったことから、両方ともに“ジャングル”と呼ばれるようになる。レイヴァーたちの多くがジャマイカをはじめとするカリブ海諸島からの移民の子孫だとすれば、レイヴで成長したブレイクビーツやハードコアの信奉者が、レゲエをもとにした酷似したリズムのジャンルを確立しても不思議なことではなかった。
しかし、ブレイクビーツのことを“ジャングル”と呼ばれてしまうことに対して怒りを覚えたブレイクビーツ・アーティストたちも多かった。彼らの多くは1994年に流行した“音”は、すでに1992年以前には使っていたのであった。しかし、クラック事件などのあおりでメディアには一切、無視されていたのであった。
クオリティは重視されず、売れるためのみに作られたラガ系ジャングルは、1993年~1994年の間にほぼ消費し尽くされ、次第に影をひそめる結果となった。
その頃、地道に実験的なブレイクビーツをつくり続けていたアーティストたちは、恐ろしくクオリティの高いサウンドを生み出していた。それまではリズムが似ているというだけでジャングルと呼ばれていた一連のこのような曲は、ジャングルとはかけ離れたものとなっていた。無駄を一切排除したドラムとベースのみを基本として構成され、オリジナルのリズムを刻む、その音楽は“ドラム&ベース”と呼ばれるようになっていた。
アフリカのウガンダ出身の親を持つL.T.J.ブケムは、1990年に初めて「DEMON'S THEME」というブレイクビーツ(おそらく、最も初めのドラム&ベース)を発表して以来、レイヴ・ムーブメントの経験を十分に活かし、その結果、「LOGICAL PROGRESSION(論理的な進化)」という“旗”をかかげ、ドラム&ベースは“LOGICAL PROGRESSION”であるべきで、これに賛同する者がドラム&ベースを理解する者となっていった。ここに、「ドラム&ベースは音楽の1ジャンルではない。“生き方”そのものだ」という言葉が生まれてくる。
「レイヴによって、音楽で、ダンスで、エクスタシーで盛り上がることは経験したが、その後、いったい、何が残ったか。結局、何も残らなかったのではないか。もっと冷静な、論理的な音楽の捉え方も必要なのではないか。クオリティの高い曲を作って、シーンを育てていくことが大事なのではないか。また、今まで、音楽というものは過去のものを模倣することが多く、それがよしとされてきたが、もっと未来に向けた、進化し続けるオリジナリティの高い曲をつくっていくことも重要ではないか」。
このような疑問をドラム&ベースは投げかけているのである。
L.T.J.ブケムは自らグッドルッキングというレーベルを立ち上げ、ペシャイ、テイラ、ワックス・ドクターといった極めて優秀なアーティストたちのテクノロジーが凝縮された、とてつもなくクオリティの高いシングルをリリースしていった。1993年に発表されたL.T.J.ブケムの「MUSIC」は歴史的作品とされ、ジャングルが衰退した1994年に爆発的ヒットとなり、ジャングル・シーンから一気にドラム&ベース・シーンが世に踊り出た。
以前は、ハードコアのレコードをリリースしていたレーベル、ムービング・シャドウはファウルプレイ、オムニトリオ、JMJ&リッチーといった良質のドラム&ベースをリリースしていた。その中でも、ディープブルーの「HELICOPTER TINE」はアンセムだった。
同じく、レイヴ期からハードコアをリリースしていたレコード・レーベル、リーンフォーストを主宰するマークとディーゴによるユニット、4ヒーローは「PARALLEL UNIVERSE」というドラム&ベースのアルバムを発表。ブレイクビーツから発展したドラム&ベースは、ハウス、テクノ、ヒップホップ、ジャズ、ソウル、ファンクなど、あらゆる音楽の歴史によって生み出されたものであることを表し、シーンの内外から絶賛を浴びた。
4ヒーローのディーゴは前衛的かつ実験的なドラム&ベースづくりについて、次のように話している。
「同じような音楽をつくっていくことは安全策だとは思うけど、それに満足はできないね。音楽は仕事だけど、会社に通うというものではないだろ? 自動車工場に行って、同じパーツを取り付けただけの平らな道しか走れない車をつくるより、もっと悪い道を走れる車をつくるような、そんな音楽をつくりたいと思っているんだ」。
1994年末、Mars Bar というクラブでSPEEDというドラム&ベースのパーティが始まり、ドラム&ベースの塞となった。このパーティでは、L.T.J.ブケム、ファビオ、ケミストリー&ストームがレジデンスDJを務め、ソース・ダイレクト、フォーテックといったアーティストの実験性溢れるサウンドをプレイし、英国中の関心を集めた。
ドラム&ベース・シーンがこのように躍進した陰には、その根底に流れる長い期間の地道な活動の積み重ねがあった。アーティスト自らによるレーベルの立ち上げから始まり、流通ネットワークの構築、レコードショップの協力の取り付け、KOOL FMなどの海賊放送局、ファンジン(情報フリーペーパー)の発行など、自分たちでできることは何でもやった。ドラム&ベースのネットワークほど、独自性と自治性を兼ね備えたシーンは今までにはなかった。それも、長い間、メディアやメジャーなレコード会社から無視し続けられてきた“お陰”であった。
この頃になると、メディアやメジャーなレコード会社側からのシーンへの歩み寄りも頻繁になり、ダークでサイバーなドラム&ベースのレーベル、メタルヘッズを立ち上げていたゴールディーは、メジャーなレコード会社のロンドンレコーズと契約、シングルの選択、カバージャケットのアートワーク、ビデオクリップ制作など、全てを委託された契約を勝ち取った。
その結果、1995年に発表されたアルバム「TIMELESS」はそのあまりにも高いクオリティで評論家をはじめ、聴く者全てを驚かせた。過去30年間で最重要アルバムの1つと評され、通常のアーティストが1つのアルバムで用いるアイディアの数を1つの曲に惜しみなく使っているようだと絶賛された。
アシッドジャズ・ムーブメントをそのルーツとし、「SISTERS TALKING」などのヒット曲を世に送り出し、自らHOSPITALという、後にドラム&ベース・シーンを代表するレーベルを主宰するようになる、ドラム&ベース・アーティストのロンドン・エレクトリシティのトニーとクリスは「TIMELESS」を初めて耳にした時、あまりの衝撃を受け、その時からドラム&ベースをつくろうと決意したそうである。彼らは語る。
「『TIMELESS』はあまりにもクオリティが高い作品でいきなり、これを真似しようとしたんだから大変だったよ。テクノロジー、テクニック、そして技術力の全てを要するんだ。でもね、それだけではダメなんだよ。最も大事なのは“感じる”ということなんだ」。
この「TIMELESS」によって、ドラム&ベースは単なるダンス・ミュージックではなく、アート(芸術)でもあるとみなされるようになった。その後も、ゴールディーの活躍の勢いは止まらず、メタルヘッズでバンドを結成、ドラム&ベースの生演奏によるライブツアーを始める。かの、ビョークといっしょに行なった英国ツアーは大成功し、その後も世界中を周り、ドラム&ベースを地球規模で拡めていった。英国国内でも、ジャズのメッカ、BLUE NOTEで日曜日の20時から24時にSUNDAY SESSIONを開始。ゴールディー、グルーヴライダー、ドック・スコット、ケミストリー&ストーム、ディリンジャ、Jマジックなどといった豪華DJ陣により、メタルヘッズのヴィジョン(ダークでハードエッジな世界)をフルに表現。他のドラム&ベースのパーティの模範となった。後に、BLUE NOTEだけではクラウドが入りきらず、土曜日の夜にMETAL SESSIONと題して、LEISURE LOUNGEという巨大クラブでもパーティを開催した。
SPEEDを終えたL.T.J.ブケムは、creamという巨大クラブでLOGICAL PROGRESSIONというパーティを始めるが、その後、月1回、500人収容のTURN MILLSというクラブに場所を移した。ファーストルーム(メインフロア)はL.T.J.ブケム、ブレイム、インテンス、テイラなどがDJを務め、EARTHと名付けられたセカンドルームではアンビエントとレアグルーブが交わる和やかな世界が演出された。「EARTH」はグッドルッキングのコンピレーションとしてもリリースされ、高い評価を得ている。
その他にも、それぞれオリジナリティ溢れるドラム&ベースのパーティが英国中に増え続けている。月曜日のBLUE NOTEでは、ANOKHAというパーティが、インド系2世のタルヴィン・シンのオーガナイズで開催されていた。これはアジアン・アンダーグラウンド・サウンドの実験場とも呼べるパーティで、インドのラーガ、民族音楽、タブラ・ブレイクビーツなどがドラム&ベースとミックスされ、独特の空間をつくり出していた。
THE ENDというクラブでは、ガンジャ・レコードを主宰するDJハイプと、フロントライン・レコードを主宰するパスカルがTRUE PLAYAZという超強力ジャンプアップ系ドラム&ベース・パーティを開き、人気を博した。また、SPEEDがなくなったMars Barでは、ファビオとサブジェクト13が、TEMPOという、より実験的なドラム&ベースを基調とするパーティを開き、話題となった。
そんな中、ブリストル出身で、ドラム&ベースでジャズの再構築を探求し続けていたロニ・サイズは、DJクラスト、DJダイたちと、リプラゼントというグループ名義でトーキングラウドと契約し、アルバム「NEW FORMS」を発表。英国の音楽賞であるマーキュリー・ミュージック・アワードを獲得した。
また、ゴールディーは1998年初頭、セカンドアルバム「SATURNS RETUEN」を発表。その中に収録されたオーケストラのストリングスが荘厳に鳴り響く60分の大作「MOTHER」は圧巻で、リスナーを唸らせた。
自身のレーベル、プロトタイプを立ち上げている帝王グルーヴライダーも1998年夏に自身初のアルバム「MYSTERIES OF FUNK」を発表し、話題をさらった。「SATURNS RETUEN」も「MYSTERIES OF FUNK」も、エンジニアを務めたのは、メタルヘッズ、プロトタイプなどのレーベルからクオリティの高いシングルをリリースしていたオプティカルだった。ドラム&ベースはサウンドのクオリティが恐ろしく高くなってきており、すでにアーティストのみでは曲を制作することは困難となっており、テクノロジーを駆使することができるエンジニアの存在が非常に重要になってきていた。ちなみに、オプティカルの弟は、プロトタイプ、ニューアイデンティティーなどのレーベルからシングルをリリースしているメイトリックスである。この兄弟がドラム&ベース・シーンの真の進化を生み出しているといっても過言ではないだろう。
ドラム&ベースのパーティのフロアでは、ドック・スコットが1995年に「UNOFFICAL GHOST」をメタルヘッズからリリースして以来、シンプルでオリジナルのリズムを刻むドラムに、唸るようなベースが重低音で鳴り響くハードエッジな音が主流になっており、それも、ナスティ・ハビッツ(ドック・スコットの変名)の「SHADOW BOXING」を通過し、ジョニーLの「PIPER」でサイバー&トライバルなハードエッジとして完成され、浸透している。
しかし、1998年以降、クールなウッドベースを基調としたE-Zローラーズの「TOUGH AT THE TOP」が大ヒットし、ドラム・ファンクというジャンルをつくったり(ムービング・シャドウから同名のコンピレーション・アルバムもリリースされている)、シャイFXのトライバルなネイチャー・ドラム&ベース「BANBAATA」が1998年、No.1ヒットを記録するなど、ドラム&ベースの限りなき可能性を証明する作品が次々とリリースされている。
1999年から、ドラム&ベース・シーンには新たな潮流が現れ始める。
才能溢れる4人組ユニットのバッド・カンパニーや、若き最先端のユージュアル・サスペクツらが生み出した、“ディスガスティング”(いわゆる、“汚い音”)という概念は、それまでの音楽的常識を根底から覆すほどの衝撃を放ち、ある意味、ドラム&ベース・シーンの代名詞的な音となり、この“汚い音”が、重低音を更なる中毒性にまで高めることができることを示し、その後、全てのダンスミュージックに多大な影響を与えることになる。
そして、Jマジックによる「SPACE INVADERS」は、高揚感極まるドラムロールを効果的に用いる手法を編み出し、これもまた、その後の全ての音楽シーンにおいて驚異的な影響を及ぼす結果となった。
これら一連の新しいドラム&ベースの流れは、ニュータイプ・ドラム&ベースとして位置づけられた。
2000年代に入り、ブラジルでは、DJマーキーとパティーフという伝説の2人により、前代未聞、前人未到の全く新しいドラム&ベース・シーンが構築されていた。
ブラジル特有のラテン・フレーバーとボサノバのリズムを巧みに融合させ、信じられないほどのスパークが生まれた。
誰もが驚く、全く新しいドラム&ベースが生まれていた。
この、ブラジル生まれのドラム&ベースは、U.K.本国のドラム&ベースのアーティストたちもぞっこんとなり、ブラジルに移り住むドラム&ベース関係者も出始めてきたほどだった。
例えば、サンパウロの飛行場やカーレース会場等を使って開催される、野外ドラム&ベース・フェスには、2~3万人がつめかけていた。
2000年代中盤になると、エレクトロ・ブームと呼応するように、フレッシュでノリの良い、爽やかで疾走感溢れるドラム&ベースが主流になっていった。
ブルックス・ブラザーズやフューチャー・バウンド、カルチャー・ショックやシグマといったアーティストがシーンを牽引していった。
また、HOSPITALレーベル率いる、トニーとクリスによるロンドン・エレクトリシティがアルバム「Power Ballads」をリリース。
何と全編生バンドによるアコースティックなドラム&ベースに仕上げ、シーンの度肝を抜き、一気にシーンの中心的存在となった。
この時期、オーストラリアでも、驚異的なスパークが起きていた。
当時、全盛だったロックとドラム&ベースの核融合が実現したのである。
そのペンデュラムは、オーストラリアのドラム&ベース・シーンの中から全世界へと飛び出し、音楽シーンの全てを席巻した。
この頃から、ドラム&ベース・シーンのシンボル的存在となってきた大御所アンディC率いるRAM Recordsは、サブ・フォーカスやTC等、ドラム&ベース・シーン全体を更なる進化のステージに昇天させるネクストレベルなハイクオリティの楽曲を次々とリリースし続けた。
2000年代後半から新たな動きが目立ち始めた。
ドラム&ベース・シーンの中でも、特に若年層を中心に、ダブステップへの傾倒が増え始めた。
時に2008年、リーマンショックが起こり、世界中が大不況に見舞われた。
もちろん、U.K.も例外ではなく、一気に景気が落ち込み、その中でも、特に若年層にその影響が大きく押し寄せた。
その暗く重い世間の空気感を、若者たちはダブステップの楽曲の中の世界観として表現した。
まるで、1993年当時の、ドラム&ベース黎明期の、時代の空気感の中、ダークな嵐が吹きすさぶ音をドラム&ベースが表現した、まさにあの頃の焼き直しが再燃し始めたのだった。
やはり、このような社会的不安が新たな文化の要素を生み出すという構図は、今も昔も変わらないようだ。
スクリーム、ベンガ、ブリアル等、ダブステップを代表する才能溢れる若きアーティストたちが、次々と、まるで彗星のように現れ、ドラム&ベース・シーンも、このダブステップのシーンを全面的に支持し、この2つのシーンは、お互い理想的な形で共鳴し合うことができた。
2010年代に入ると、全世界的なEDMの流れが本格的に始まり、EDMの雄DJティエストと、テクノ界のゴッドであるアンダーワールド、そして、ドラム&ベース・シーンのプリンスであるハイ・コントラストによる、まさに夢の共演が実現した名曲「The First Note Is Silent」が完成し、リリースされると世界中で最高潮の話題となった。
それまで、ある意味、タブーだった、ドラム&ベース・シーンと他のダンスミュージック・シーンとの融合が、一気に、加速度的に進み始めた。
ポストEDMの最先鋒と目されるシンセウェーブとのコラボレーションを実現させた、フレッドV &グラフィックスの「Tension」は、さらなるドラム&ベースの別次元への可能性を最大限感じさせてくれる一曲といえるだろう。
2010年代も後半に差し掛かった今日、全世界的な1990年代ブームが巻き起きているが、それと呼応するように、90年代カルチャーの中心的存在だったドラム&ベースが再び見直され始めている現実もある。
当時の時代の空気感が、今まさに、世界のトレンドなのだ。
このようなドラム&ベース・シーンの現在を、L.T.J.ブケムは次のように語っている。「ゴールディーにしても、ロニ・サイズにしても、そして僕にしても、みんな、今のatmosphereを音楽として表現しているにすぎないんだ。メディアはドラム&ベースというジャンルにこだわるけど、僕たちはジャンルにこだわって音楽づくりをしているわけではない。それぞれのアーティストがレイヴやブレイクビーツなど、自分なりの経験の上で音楽をつくっている。それが、たまたま、テンポやリズムが似ているだけなんだよ。たまたま、似ているだけで、ドラム&ベースというジャンルになっているにすぎないんだ。ドラム&ベース・シーンというジャンルになっているにすぎないんだ。ドラム&ベース・シーンといっても、いろいろなアーティストがそれぞれ、バラバラに表現したいことを表現している。それがとてもいい関係になっているんだ」。
今、ドラム&ベースのリズムは、多くのレーベルとDJたちの積み重ねてきた努力によって、世界中に鳴り響いている。米国、フランス、ドイツ、スイス、オランダ、スペイン、イタリア、ベルギー、ロシア、オーストラリア、シンガポール、マレーシア、ニュージーランド、ブラジル、そして日本…。
このように、ドラム&ベースが地球規模で知れ渡るようになった過程には、レイヴ、エクスタシー、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」、“クリミナル・ジャスティス・アクト”、ブレイクビーツ、ダーク、ジャングルといったキーワードが確実に存在していたわけで、ドラム&ベースのアーティスト、DJ、エンジニアをはじめ、シーンを支えてきた多くの若者たちは、多くの苦労と多くの苦痛を共に体験してきた歴史がある。大きな壁にぶつかりながらも決して自分たちの音楽をつくること、聴くこと、そして、踊ることをやめなかった。
さらには、メディアやメジャーなレコード会社から久しく無視されてきたにも関わらず、それもバネにして自分たちの流通ネットワークを構築し、常にアンダーグラウンドであり続けているのである。彼らが守り続けた音楽は、ブレイクビーツ、ダーク、ジャングル、そして、ドラム&ベースと、呼ばれる名前は変化しているが、それは彼らにとってみれば根底は同じであり、変化は進化と同義なのである。
atmosphere(時代の空気)を曲に反映させるのがドラム&ベースだとすれば、進化とは、まさに時代の流れそのものであり、彼らの歩んできた歴史そのものなのである。とすれば、冒頭で述べた、ドラム&ベースという生き方とは何かという答えは、ここで述べた、彼らの歴史そのものであるといえないだろうか。
カリブ海諸島出身の労働者階級の2世、3世であることが多い彼らの多くは、英国という閉塞された空間で生き抜くために、自分の“生き方”を決めた。その“生き方”こそが、今まで、彼らが歩んできた、歩んでいる、そして、これからも歩もうとしている未来の歴史、atmosphereを反映したドラム&ベースなのではないだろうか