80年代ブームだ。実は、僕も最近、昔のレコードを引っ張り出してきて、毎晩のように聴いている。そう、初期のユーロビートやニューウェイブ、ハイエナジーなどである。90年代を含め、この10年以上、これらの曲は“はずかしい”とされ、もう自分の中では“封印”していたのだが、今になって改めて聴いてみると、これがなんとも“カッコいい”! 20年も前にこんな曲があったなんて、信じられない! 今、改めてそう思う(でも、この頃、もうすでに僕はクラブやディスコで踊っていた!)。最近の比較的軽い音を重視するようになった傾向(まさに80年代的!)では、80年代のディスコで流行った音はドンピシャリ! ダンスミュージックのアーティストたちがこの頃の曲をこぞってサンプリングしまくっているのも容易に納得できる。
80年代初期、70年代に全盛だったファンクに、当時、突如としてミュージック・シーンを圧巻したテクノ・エレクトロ・ミュージックが融合してできた究極のダンスミュージックがハイエナジーだ。最新の電子音に、ファンキーでソウルフルなヴォーカルがのっている、その新しい音楽は世界中を熱狂させた。イヴリン・トーマスの「ハイエナジー」というトラックはその代表曲となり、ダンスミュージックの代名詞となった。この頃、コフィー&ザ・ラブトーンズの「カウントダウン」や、トランスXの「リビング・オン・ビデオ」、ホット・ゴシップの「ブレイク・ミー・イントウ・リトル・ピーセス」などが大ヒット。日本のディスコ、「ゼノン」(現「CODE」)や「ニューヨーク・ニューヨーク」(現「リキッドルーム」の下の階にあったディスコ)、「ラ・スカラ」(渋谷の公園通りにある現「ディズニーストア」の地下にあった2階吹き抜けだった巨大ディスコ。最近、m-floの「come again」の歌詞の中に登場して話題になった)、「ザ・リージェンシー」(六本木ロアビルの13階にあった、全面ガラス張りで、東京タワーなどの見晴らしが最高によかったディスコ)、そして新宿・歌舞伎町の東亜会館、六本木スクエアビル(「クラブ・クワイル」が入っているビル)など、数多くのディスコで、ハイエナジーはDJにプレイされまくっていた。
その中でも異彩を放ってカッコいい曲があった。デッド・オア・アライヴの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」である。この曲は他のハイエナジーの曲よりも圧倒的にカッコよかった。その音の激しさ、スピード感は、まさにフロアを絶頂に盛り上げるためにつくられたトラックだった。先日、久しぶりにこの曲のレコードに針を落としてみて、音のカッコよさ、曲の展開のすばらしさに鳥肌が立った。
そして、この頃、ディスコでかかりまくっていたのは当時、世界中で大ブームを巻き起こしていたニューウェイブ・ミュージックだった。ニューオーダーやブロンスキ・ビート、デペッシュ・モードやエコー&ザ・バニーメンなどの曲がハイエナジーに混じってDJプレイされていた。驚いたことに今年の「フジロック・フェスティバル」に出演するために、ニューオーダーとエコー&ザ・バニーメンが来日するという。ニューオーダーやデペッシュ・モードも新しいアルバムをリリースした。なんとデッド・オア・アライヴも新曲を発表したという。「80年代ブーム」というより、彼らは今だ“現役”なのである。デペッシュ・モードのニューアルバムは、90年代をうまく消化し、それでいて自分たちの築いてきた80年代のテイストを最大限に表現していて、今聴くには最高の仕上がりとなっていた。
80年代を代表するダンスミュージックといえば「ユーロビート」と言われるが、アンジー・ゴールドの「イート・ユー・アップ」(邦題「素敵なハイエナジー・ボーイ」〔荻野目洋子が日本語で歌って大ヒットした〕)が、ヨーロッパ産の哀愁漂うメロディーが特徴(まるでエピックトランスのよう)と評され、この曲が大ヒットした1985年からユーロビートという言葉が定着し出した。ユーロビートが大ブームを巻き起こした背景には、ある有名プロデューサーの存在があった。ストック・エイトケン&ウォーターマンである。「ヴィーナス」のバナナラマや、「ブーム・ブーム」のポール・レカキスなど、80年代後半を代表する超ヒット曲は必ずといっていいほど、ストック・エイトケン&ウォーターマンがプロデュースしていた。日本でも、ちょうど、バブル景気真っ只中だった、その当時、「マハラジャ」や「エリア」「シパンゴ」「キング&クィーン」といったゴージャス系のディスコで、ユーロビートはプレイされまくっていた。
さて、ここで話は、六本木から、インドのゴア地方へ飛ぶ。60年代のフラワー・ムーブメントを受けて、「ヒッピーの聖地」インドのゴア地方には世界中から多くの若者たちが集まっていた。70年代、多くのコミューンが出来上がり、80年代に入ってもそこは「聖地」であり続けた。特に変わったことといえば、毎晩のように開かれるパーティが、ロックやソウルから、電子音系のダンスミュージックになったことだった。80年代、ゴア地方のコミューン内のパーティ・オーガナイザーやDJたちは、そのありあまる時間を利用して、ハイエナジーやニューウェイヴ、そして初期のユーロビートなどの、ヴォーカルが入っていない部分だけをカットしてつなぎ、究極の、踊るためだけのトラックをつくっていた。そのトラックがパーティでDJプレイされると、異常なまでの盛り上がりをみせた。「ヨーロッパのゴア」と呼ばれ、同じく世界中から多くの若者たちが集まっていたスペインのイビサ島は、ゴア地方と深い交流関係があった。イビサのDJたちと、ゴアのDJたちは情報交換をしていたのだった。ゴアでつくられた、その踊るためだけにつくられたヴォーカルの入らないトラックは、イビサのDJたちを驚かせた。イビサのDJたちは毎晩のように、これらのトラックをパーティでプレイした。
1987年、ロンドンからやって来た若き日のポール・オーケンフォルドらは、そのトラックとDJスタイルを体験して驚愕した。早速、ロンドンでこのスタイルのパーティを始め、バレアリック・スタイルを確立した。当時、流行したドラッグ(エクスタシー)と融合し、アシッドハウス・ムーブメントが起こり、そのあまりに膨張した規模の大きさにフロアは野外になっていき、それがレイヴ・ムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に発展していく。「セカンド・サマー・オブ・ラブ」は、テクノを、プログレッシヴ・ハウスを、ドラム&ベースを、サイケデリック・トランスを産み、現在のダンスミュージックの母体となった。
しかし、それらも元をたどれば、80年代に全盛だったハイエナジーやニューウェイヴ、初期のユーロビートの存在があって初めて成立したものだといえる。90年代という10年の空白を越え、今再び、ハイエナジー、ニューウェイヴ、初期のユーロビートを耳にして、これらの歴史に想いをめぐらせてみると、なんとも感慨深く、それでいて80年代のダンスミュージックに“新しい”サウンドを感じざるを得ない気がしている。