第20回
クラブとテロと戦争と…


2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービル2棟に、ハイジャックされた旅客機が突っ込み崩壊、6,000人以上の人たちが犠牲となった。また、アメリカ国防省(ペンタゴン)、ペンシルバニア州にも、同じくハイジャックされた旅客機が激突、この日、21世紀最初の歴史的惨劇となった。この同時多発テロを受けてU.S.は、世界各国との協調を取り付け、このテロ事件の首謀者とみられる、イスラム原理主義組織の実質的なリーダーである元サウジアラビアの大富豪、オサマ・ビンラディン氏をかくまっているアフガニスタンを実質支配しているタリバン政権への武力攻撃を10月8日から開始した。
9月11日、突然、起こったこの事件に全世界は震撼した。U.S.はすぐに全ての飛行機の運航をストップした。この事件は当然、日本のクラブシーンにも大きな影響を与えた。U.S.から来日する予定だったDJやアーティストたちが軒並み来日できなくなり、スケジュールはキャンセル、または延期となってしまった。来日を楽しみにしていたクラヴァーたちや、クラブ関係者にも多大な影響を与えた。
今回のこのテロ事件の、東京のクラブシーンでの混乱を目の当たりにして、ある夜のことを思い出した。あれは忘れもしない1995年3月20日の月曜日、地下鉄サリン事件が発生した日だ。朝8時過ぎ、オウム真理教の信者たちが共謀して、日比谷線など東京の中心を走る地下鉄に猛毒のサリンを散布、3,000人以上の人たちが病院に運ばれる大惨事となった。この日の翌日は春分の日で休日だったということもあり、都内の多くのクラブでは大きなパーティがいくつも予定されていた。僕の友人も、当時、六本木にあった「ジャングルベース」というクラブ(「ベルファーレ」の向かいにあった大きなクラブ)にニューヨークからハードハウスのDJを招いて行なう大きなパーティを企画していた。しかし、その日、地下鉄サリン事件の影響で、日比谷線、千代田線などの地下鉄は全てストップ。当時、大江戸線がまだなく、日比谷線しかなかった六本木、さらに千代田線も止まり、乃木坂も使えなくなった六本木のまちは廃墟と化した。実際、道を全くといっていいほど、人が誰も歩いていない六本木の街というのを、その時、初めて見た。僕はどうしても、その友人の企画したパーティに行きたかったので、タクシーで六本木に向かった。そして、そのような異様な光景を目の当たりにしたのだった。大々的に宣伝した大きなパーティだったにも関わらず、案の定、フロアはガラガラ、人が入るわけがなかった。それでも、深夜過ぎには数十人は集まったが、何とも悲劇的な夜だった。その時のオーガナイザーの悲痛に満ちた表情は、今でも忘れられない。
今回、ニューヨークで起こったテロ事件。これをブッシュ大統領はテロ事件だとはしなかった。“新しい戦争”と位置づけてしまった。戦争とクラブの関係で記憶に新しいのはユーゴスラビア内戦だろう。1992年、ユーゴスラビアで内戦が勃発。セルビア人とクロアチア人、そして、イスラム教徒たちが三つ巴の戦闘を始め、泥沼化していた。その当時、ヨーロッパの若者たちは、浸透し始めたばかりのインターネットを活用し、情報交換をしながら、旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ周辺で、オランダの若者たちを中心として、戦火の中でレイヴを開催していった。レイヴは一時の休息の場として敵同士であったセルビア人やクロアチア人などの人種に関係なく集うことができた。このような地道な努力の積み重ねがあり、間接的にはではあるが、内戦を終結に導いたという説もある。
当時、ちょうど、U.K.でレイヴが禁止となり、ドイツではベルリンの壁が崩壊、東西冷戦が終結し、“平和の象徴”としてレイヴが頻繁に開催されていき、一気にヨーロッパ各国に広まっていた。オランダ、ベルギーの若者たちは、この大きなムーブメントに、当時、最新のテクノロジーだったインターネットを駆使して、ユーゴスラビアでレイヴを開催していったのである。これはヨーロッパの若者たちに大きな自信を与えた。ダンス・カルチャーが単なる“遊び”ではなく、歴史そのものだという認識が広がり、その場しのぎの消費する文化ではなく、歴史と同じく、積み重ね、構築していく文化だということを悟ったのである。
今回のテロ事件に関しては、U.S.、アフガニスタン、パキスタンなど、関係している各国とも、今まで、その国が行なってきた歴史を振り返ってみれば、その根源にある原因がわかるはずである。武力による報復は憎しみしか生まない。自らの歴史を顧みて、お互いの国が一歩一歩、その関係性を改善・修復する以外に道はないだろう。今回のこの事件は、クラブでみんなといっしょに踊るということの幸せ、そして、平和の中に生きるという幸せを改めて考えさせてくれている。