1998年、ヨーロッパで彗星のように現れたクラブミュージックの革命、それがエピックトランスだった。それまで比較的、カッティングエッジだったプログレッシヴハウス・シーンにおいて、フロアで踊るクラウドたちが一体になりやすい、わかりやすいメロディーを携えたエピックトランスのトラックが次々に大ヒット。「エピックトランス/プログレッシヴハウス」というジャンルが確立した。それは世紀末のお祭りムードに突入していたヨーロッパにおいて、爆発的に拡がっていった。システム.Fが、ポール・ヴァン・ダイクが、シケインが、そしてフェイスレスが、次々と魅力あるトラックを発表。それまでクラブとは縁がなかった多くの人たちを巻き込み、クラブパーティは「フェスティバル」と呼ばれるほど、会場はまたたく間に大きくなり、それまででは考えられないほど多くの人たちが集まるようになった。1999年には、まさにミレニアム・ムードに湧いた全世界で、音楽の祭典にふさわしく「エピックトランス/プログレッシヴハウス」で、地球規模の人たちが踊りまくった。
そのわかりやすいメロディーと展開のため、多くの人たちに受け入れられはしたものの、逆にあきられるのも早かった。「エピックトランス」を堪能した人たちは、次第にメロディーよりも、リズムを重視し出し、よりディープで、ミニマルなプログレッシヴハウスを好むようになっていった。そして2000年は、プログレッシヴハウス全盛の年となったのである。ポール・オーケンフォルド、サシャ&ジョン・ディグウィード、ジャッジ・ジュールスといったベテランDJたちがその牽引役となっていった。ハウスはもちろん、テクノ、トランスなど、あらゆる要素を吸収したプログレッシヴハウスは、それまで存在していた音楽のジャンルという壁を見事に打ち破り、さらに、そのシーンを拡大していった。
2001年、このように、あまりにも大きくなりすぎたダンスミュージックシーンは次第に、1998年以前のように再び細分化し始めた。80年代を彷彿させる比較的軽い音を重視したフィルターハウスや、2ステップを契機に盛り上り始めたU.K.ガラージ、そして、あらゆるダンスミュージックの中でも、特に突出して進化し始めたニュータイプ・ドラム&ベースなどの新しい音楽の登場により、あまりにも大きくなりすぎたプログレッシヴハウスを楽しんでいた世界中の、実に多くの人たちは本来あるべきクラブのスタイルを求め始めた。そのタイミングで2001年、大ブレイクしたのが、ダフトパンクやロジャー・サンチェスの全世界的ヒットで定着したフィルターハウスであり、KOSHEENやアンディC、バッド・カンパニーやブラジルのDJマーキーらが従来の激しいドラム&ベースに、包み込むようなやさしさをプラスし、究極の最先端音楽に仕上げ始めてきたニュータイプ・ドラム&ベースであったわけだ。
以上、世界のダンスミュージックの動向をみてきたが、日本ではどうだろうか。最初に結論を述べると、日本は世界よりもちょうど1年遅れていると言わざるを得ない。1999年、初めて、世界と意を同じくした「エピックトランス/プログレッシヴハウス」のシーンが登場、その後、約1年かけて、ようやくトランスシーンが確立した。そして、2001年、テクノ、トランスなどのジャンルを超えたプログレッシヴハウスにシフトした多くのDJたちにより、プログレッシヴハウスにクラブシーン全体が進化した。フィルターハウス、U.K.ガラージ、ニュータイプ・ドラム&ベースのパーティは存在するが、あってもいくつかにすぎず、シーンとして成立しているかというと、まだ、そこまではいっていないのが現状である。いずれのパーティも昨年前半から始まっているが、はじめのうちはどのパーティも動員数が厳しく、とても成功しているとはいえない状況だった。しかし、世界の情報が多く入ってくるにつれ、その動員数も増え始め、ここにきて、ようやく定着してきた感がある。
今まで、友達などに「どんな音楽が好き?」と聞かれて、「ハウス」とか「テクノ」とか「トランス」などと答えればそれでよかったが、今後はより複雑な答え方をしなければならないだろう。「プログレッシヴハウス」とか「フィルターハウス」とか「U.K.ガラージ」とか「ニュータイプ・ドラム&ベース」とか…。よほどクラブ通の人たちならともかく、ふつうにクラブで遊んでいる人たち、もしくは、一般の人たちにこのように答えても理解してはもらえないだろう。どんな音楽なのかを言葉で説明することほど難しいことはない。
では、世界ではどのように表現しているのだろうか。答えは簡単である。「ダンスミュージック」という一言ですべてが表現されている。U.K.の雑誌「DJ magazine」や「MUZIK」、U.S.の「URB」、カナダの「DJ TIMES」など、そのいずれもが「ダンスミュージック・マガジン」だと表現している。ここ最近では、「クラブ」という表現が減ってきていることに注目してほしい。おそらく、「エピックトランス」や「プログレッシヴハウス」全盛の時代の、あまりにその規模が巨大になったシーンにおいて、「クラブ」という表現がそぐわなくなったのであろう。
例えば、実際、先日、来日したテクノの帝王デリック・メイは、デッド・オア・アライヴの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」をまわしていたという。このトラックは1984年にリリースされた、ユーロビート以前の「ハイエナジー」と呼ばれていた時代に記録的に大ヒットした伝説の名曲である。デッド・オア・アライヴといえば、ユーロビートの代名詞的存在ではあるが、実は正当なゲイカルチャー・ミュージックだったのだが…。その日、当然、デリック・メイのDJプレイを聴きに来ているクラウドがほとんどであったろうが、デッド・オア・アライヴを知っている30代のクラウドたちも、存在すら知らない20代前半のクラウドたちも、その夜、最も盛り上がったのが、この「ユー・スピン・ミー・ラウンド」がプレイされた時だったそうだ。このこと一つとってみても、もうすでにジャンルというものは意味がなくなってきてしまっているようだ。
ここで一つ提案がある。日本でも「ダンスミュージック」という表現が定着されるべきなのではないだろうか。ハウスやテクノ、トランスやドラム&ベースなど、電子音系クラブ・ダンスミュージックのことを「ダンスミュージック」として表現するべき時だと思う。デリック・メイのテクノも「ダンスミュージック」なら、デッド・オア・アライヴのユーロビートも「ダンスミュージック」なのである。僕がこの連載の中で以前からよく「ダンスミュージック」という言葉を使ってきたのにはこういうわけがあったからである。まだまだ、日本の一般の人たちからすれば「ダンスミュージック」というと、なんとなく古くさいような、下手をすれば、社交ダンス的なニュアンスでとらえられるかもしれない。しかし、「テクノ」という言葉一つとってみても、その昔はYMOのような「エレクトロ」のことを意味していたし、はたまた90年代初頭には、「ジュリアナ」で、Tバックをはいたイケイケ・ギャルが扇子を持ってお立ち台で踊るための音楽を意味していたわけで、それが多くの人たちの努力と時間の経過で、今ではすっかり本来の意味の「テクノ」としての復権を果たしたわけだ。
世界共通となっている「ダンスミュージック」という言葉。日本でも是非とも定着させていきたいものだ。それにはまず本誌「FLOOR-net」の表紙にある「CLUB CULTURE MAGAZINE」を、「DANCE MUSIC CULTURE MAGAZINE」にしなくては…!!