第37回
ムーブメントの起こし方
-テクノの場合-(Part 1)


本誌前号の、この連載、第36回「自分にしかつくれない一曲が世界を変える! 」の中で、1998年〜2000年にかけてのエピックトランス/プログレッシヴハウスの地球規模の大ムーブメント以来、世界的にクラブシーンでの新たなムーブメントが起こっていないことについて触れた。そこで、そんなときだからこそ、自分の手で、自分にしかつくれない、世界を変えてしまうような新しいジャンルとなる一曲をつくってみようという提案を行なってみた。
今回は、そこから一歩進んで、もし、そのような曲がつくれたとして、どのように世の中を変えることができるようなムーブメントを起こせばよいのか、もしくは、どのようにムーブメントというのは起こっていくのかということについて、1994年〜1996年にかけて、日本全国を圧巻したテクノ・ムーブメントを例にして述べてみたいと思う。
1994年、東京のクラブシーンのメインストリームは、アシッドジャズのルーツを探すフリーソウルなどが中心で、渋谷のクラブ「ROOM」などが、そのメッカとなっていた。本来の意味の「テクノ」という言葉は、全くと言ってよいほど浸透しておらず、テクノといえば、1980年代初頭にブームを巻き起こしたYMOのピコピコサウンド、もしくは、1994年当時、Tバックをはいたボディコンのイケイケ・ギャルたちがお立ち台で扇子をふりまわす「ジュリアナ東京」で、ジョン・ロビンソンが叫んでいた「テクノ〜‼」という言葉に表されるような「JAMES BROWN IS DEAD」などの狂信的なハードコア・テクノ(ジュリアナ・テクノ)を意味していた。「テクノが好き」だということを、ふつうの人に説明するには勇気が必要だったし、だいたいは、YMOか、ジュリアナが好きな奴だと勘違いされて終わるのが関の山だった。また、困ったことに、本来の意味のテクノは、歌詞もなければ、メロディーもないので、どうにもこうにも、口で説明することがあまりにも困難だったのである。
1989年から続いていた、ほぼ唯一と言ってよいウィークリーのテクノのパーティが存在していた。渋谷のクラブ「CAVE」で毎週土曜日に開催されていた「トランスナイト」というパーティだ。DJ K.U.D.O.がプレイする、そのパーティは、ウィークリーのパーティとしては唯一、U.K.のレイヴ・ムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」をはじめ、ドイツやオランダなどの、アシッドハウスやテクノ、ハードコアやアンビエントなどの曲をほぼリアルタイムで表現していた。当時、僕はそのパーティにはまっていて、毎週のように通っていたが、僕以外はほとんど日本人はいかなったことを思い出す。真っ暗(真っ黒?)なフロアにただストロボだけがほぼ一晩中、瞬き続き、さらに単調なリズムとビートのみの空間にいると、ドラッグなんか摂らなくても、十分にトリップできた。
その「トランスナイト」は1991年、西麻布に「Yellow」がオープンすると、そこの金曜日のウィークリー・パーティとして、「ART」の名でブッキングされ、次第に広く認知されるようになり、毎週、うなぎのぼりに、そのファンは増え続けていった。ほぼ毎週、そのパーティに通っていた僕にとって、毎週毎週、確実に来場者の数が増えていくその様子は、まさに驚きの連続であったし、新しいムーブメントの息吹を身を持って体感した瞬間の連続だった。朝5時で終わってしまう「ART」だけではもの足りないクラウドたちの多くは、そのまま、西麻布にあった「ジオイド」(後の「フラワー」)に場所を移動して、アフター・アワーズを楽しみ、昼間になるまで踊り続けた。
その頃、石野卓球は「東京ウォーカー」の自身の連載の中で、ひたすら、テクノについて語っていた。さらに、自分の出演するラジオなどの番組の中では、必ずテクノをプレイし、今まで全くテクノに触れる機会のなかった、どちらかといえばメジャーな石野卓球のファンたちがテクノを認識するようになっていった。
田中フミヤは当時、自らの金銭をはたいて、テクノの曲づくりとDJプレイを続けており、自ら築き上げたネットワークと、それを支えるファンを、地道だが着実に増やしていき、全く個人の力のみで独自のシーンを確立しつつあった。さまざまな人たちの個人的な営みによって、テクノのパーティは少しずつではあるが、開催されるようになっていった。
当時、テクノのレコードを買うには「WAVE」などの大型レコードストアの一つのコーナーを探せば十分だった。それほど、輸入して販売している数は少なかったし、需要も多くはなかった。しかし、そんな中、「シスコ・テクノ店」が渋谷にオープン。パーティでかかっているレコードを買うことができる可能性が一気に広がった。また、大型店の店員の書いた説明では満足できなくなっていた多くのファンたちの要望に応えるように、レコード一枚一枚に、詳細な説明書きが加えられた。ファンは連日、「シスコ・テクノ店」に通い、ひたすら、説明書きを読み、お気に入りのレコードを探すため、試聴し続けた。
そして、1995年、驚くべきことが起こった。ソニーレコードが、テクノ3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」の中から、それぞれマストなベスト10をセレクト、入手困難だった名盤や日本独自企画のオリジナル・コンピレーションCDなどを、なんと3カ月連続、合計30タイトルを一気にリリースしたのだ。デトロイトとシカゴを結び、アシッドの新展開を決定させたプラスティックマンのベースともいえる初期リッチー・ホーティンの集大成、F.U.S.E.名義の「Dimension Intrusion」や、ファンキーなマシンビートが脈打ち、テクノ・ソウルが唸るベスト・オブ80年代のホアン・アトキンスの1985年の伝説的名曲「No UFO's」を含む最高で極上のベスト盤、MODEL 500名義での「Classics」、そして、「Camargue」が大ヒットしていたハードテクノの第一人者、ベルギー生まれのC.J.ボーランドのファースト・アルバム「The 4th Sign」や、フランクフルト・テクノシーンの雄、ハードフロアの「Respect」など、名盤中の名盤ばかりの怒濤のラインナップだった。「TECHNOMAN'95」と題されたこの企画は、その大半のCDがなんと1,800円というロープライスでリリースされ、さらに、「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」の3大レーベルのロゴ入りレコードバッグやオリジナルTシャツ、トーキング・テクノ・ウォッチなどのテクノ・グッズが当たるプレゼントも実施された。 この企画により、それまで大都市の大型レコードストアもしくは「シスコ・テクノ店」などの少数の専門店でしか手に入らなかったテクノの曲が、日本全国どこのレコード店でも手軽に手に入るようになった。しかも、日本盤なので、詳しい解説やライナーノーツなども付き、このCDシリーズを購入したテクノ・ファンたちは、まさにテクノ・フリークへと進化していった。それまで、本来の意味のテクノとはどういうものか、口では説明できなかったが、テクノ・フリークたちは、友達にこのテクノのCDを聴かせたり、テープにダビングしたりして、配り始めた。こうして、テクノの信者となっていったテクノ・フリークたちは、さらに信者を増やすために、日々、CDをテープにダビングし、多くの友達に配りまくっていった。そんな熱狂的な信者が日本全国あちこちで多発し始め、テクノにはまっていくファンたちがじわじわと増え始めていった。
-次号へ続く-