ここ数回にわたり、1994~1995年にかけて、日本全国を圧巻したテクノを例に、クラブシーンのムーブメントの起こし方について連載している「THINKING EVOLUTION」。「Yellow」でウィークリーに開催されていた「ART」というパーティ、石野卓球や田中フミヤの活動、「シスコ・テクノ店」のオープンなどによって徐々にテクノに触れる機会が増えてきたということや、ソニーが放ったテクノ3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」のそれぞれマストなベスト10、合計30タイトルのCDの3カ月連続リリースによって、テクノを聴くことができる環境が整い、ジェフ・ミルズやローラン・ガルニエなどのDJプレイを固定カメラで撮影したMXTVによる驚異の1時間番組「ハートビートソニック」の毎週の放映によって、テクノをDJプレイしたいと思う人が急増し、さらに、ケン・イシイの世界的な大ブレイクによって、「自分でも曲をつくってみよう!」と思う人が増えていったことについて、前号までは述べた。今回は、日本中のそのテクノの信者たちのほとんどが、テクノのパーティーに向かうようになり、ついにムーブメントとなって、大きなうねりになっていった歴史を振り返ってみることにする。
新宿の「オートマティック」や、渋谷の「MO」というクラブがオープンすると同時に、それらはまさに、テクノの“殿堂”としての機能を果たし始めた。そこはまさにテクノフリークたちが毎晩のように集い、そこにいる人たちはみなテクノが好きだという暗黙の了解の上で、知らない人同士であっても、気軽に話すことができる、とてもフレンドリーな空間だった。それまでのクラブといえば、ちょっと危ない感じやダーティーなイメージがつきものだったが、それらには全くなく、ただ単にテクノで踊り、テクノを聴くことが好きな、どちらかといえば、インテリジェンスなクラウドの集まる場だった。
六本木の超巨大クラブ「ヴェルファーレ」の向かいの地下にあった「ジャングルベース」というクラブでは、マンスリーで「DADADISCO」というパーティーが開催されていた。テクノをはじめ、オランダやニューヨークのハードハウス・シーンで著名な外国人DJを毎月招聘し行われていたパーティだった。300~400人の動員を常にキープしていたそのパーティーが「リキッドルーム」に進出することになった。その第一弾の招聘DJはあのジョシィ・ウインク!そのパーティのそれまでの実績からすると、いきなり「リキッドルーム」は無謀ではないかという声もあったが、前2回のこの連載で述べたように、テクノをめぐる状況はすさまじい勢いとなっており、「リキッドルーム」での初めての「DADADISCO」には、なんと、1,000人近くが大挙して押し寄せたのだった。あの夜の、あの「リキッドルーム」での、あのパーティの、あの超満員のフロアを見た瞬間、僕は鳥肌が立つのを感じたし、テクノというおそろしく偉大なムーブメントがついに起こってしまったんだという現実を体感した。
その後、「リキッドルーム」で本格的なマンスリーのテクノのイベントが開催されるようになった。今では伝説として語られることの多い「クラブ・ヴィーナス」である。ジェフ・ミルズ、アンディ・ウェザウォール、リッチー・ホーティンをはじめ、超豪華外国人DJがメインゲストとして登場するそのパーティーは、まさにテクノ・ムーブメントそのものだったといえる。毎回1,000人近くの動員を記録していた「クラブ・ヴィーナス」は、テクノの“メッカ”として君臨していった。
僕は、毎月、フロアで踊りまくっていたが、どうしても気になることが、一つあった。フロアで踊っているクラウドたちのことである。それまで、クラブに来るクラウドというのは、パンクロックやHIPHOP、ソウルやハウスのように、そのジャンルごとのファッションやスタイルがあり、世間的には「クラブで遊んでいる人=カッコいい人」というイメージが定着していた。しかし、「クラブ・ヴィーナス」をはじめ、テクノのイベントに来るクラウドは、お世辞にも「カッコいい人」とはいえなかった。「クラブ・ヴィーナス」に来るクラウドの中には、紙袋をバッグ代わりに持ってきている人や、人目見てファッションやおしゃれには、ほど遠い人たちが多かったのである。そう!一言でいえば、見るからに「オタク」な人たちが多かったのである。
僕は当初、その状況にとまどった。ストリートファッションの基盤となった大貫憲章が主宰するパンクロックパーティ「ロンドンナイト」や、ファッションモデルをはじめ、多くの業界関係者が集うハウスのパーティを通過してきた僕にとって、そのようなテクノの状況は今まで体験したことがなかったのである。おそらく、僕だけではない。日本のクラブ史上、初めての出来事が起こっている最中だったのである。
実は、この状況には、れっきとした理由があった。「クラブ・ヴィーナス」が始まった1995年という年は、ある種、特殊な年だった。ソニーが「プレイステーション」を発売したのが、この年だったのだ。それは当時、大きな社会現象を引き起こした。ゲームソフトの豊富さで圧倒的な存在感を打ち出したゲームの革命を起こした「プレステ」。実は、そのゲームソフトの中のBGMの多くにテクノが使われていたのである。デジタルなゲームには、デジタルなテクノミュージックが、実にうまくマッチしていた。そして、「プレステ」を発売したソニーは、前述したように、テクノの世界的3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」と契約しており、そのタイトルのCDをリリースしていた。そこで、当時、「プレステ」の発表会や、新作ソフトのリリースイベントなどで頻繁にテクノがそのBGMとして使われ、それまで、クラブに来たことのなかったゲームファンたちの間でテクノミュージックが除々に浸透していったのである。基本的に「オタク」で「マニア」な彼らは、すぐにテクノにはまっていった。どちらにしても、テクノ・ムーブメントにおいて、ソニーの果たした役割というのは非常に大きかったといえる。
また、1995年という年は、あの「Windows95」が発売された年でもある。「Windows95」の登場により、パソコンが爆発的に普及、全世界でデジタル革命が起こった。パソコンゲームのBGMに、「プレステ」同様、テクノの曲が使われ始めたのはもちろんのこと、何よりも大きかったのは、インターネットの普及であろう。「オタク」で「マニア」な人たちがテクノにはまっていくに従い、彼らはインターネット上でホームページを作成、さらに信者は増えていった。当時は現在と違い、誰もが気軽にホームページをつくれるような時代ではなかった。ホームページを個人で立ち上げるには、雑誌一冊を新しく立ち上げるのと同等のエネルギーが必要だったし、立ち上げる人たちもそれぐらいの気合いが入っていた。内容的には昔のホームページのほうが、おもしろくて、専門的なものが多かったはずである。こうして、「オタク」で「マニア」な人たちほど、テクノにはまっていき、インターネット上でコミュニティをつくり始めた。そう!テクノフリークたちは、自分たちに最も適した、自分たちのコミュニケーション・ツールとしてのメディアを手に入れ、それを思うように操ることができるようになったのである。そういう人たちと、テクノをDJプレイしたい人たち、テクノの曲をつくりたい人たちが、大きく融合し、そのテクノ・ムーブメントの“メッカ”である「リキッドルーム」でのマンスリー・パーティー「クラブ・ヴィーナス」は、毎月1,000人近くの動員を誇っていたのである。
僕は、シーンをつくるというのは、そういうことなのではないかと考える。テクノというクラブのジャンルを広げたいと思ったら、すでにクラブシーンにあるジャンルのクラウドを奪うのではなく、全くクラブシーンとは関係のない人たちを、クラブシーンに巻き込むこと、それがシーンを作り出すことなのだと思う。テクノのムーブメントの成功の鍵は、そこにあるのではないか。テクノは、ハウスやソウルやロックのクラブシーンのクラウドではなく、「オタク」で「マニア」なゲームファンやコンピュータマニア、ひいてはアニメ系の人たちといった、それまで全くクラブとは縁のなかった人たちを取り込み、そのシーンを拡大していったのだ。テクノを聴いたことのない人たちに、CDをテープに録音して配り、聴いてもらうことや、テクノで踊ったことのない人たちをテクノのパーティーに誘い、踊ってもらうことなど、このような、テクノに触れたことのない人たちを大きく巻き込んでいった、多くのテクノの信者たちの地道な活動の連続の結果が、「クラブ・ヴィーナス」の成功に結びついていたと思うし、それ自体が、まさにテクノ・ムーブメントそのものだったのではないかと思うのである。
-次号へ続く-