第40回
ムーブメントの起こし方
-テクノの場合-(Part 4)


前回までの3回に渡り、1994~1995年にかけて、日本全国で除々に除々にテクノがムーブメントとして浸透していった歴史について述べてきた。今回は、そのテクノ・ムーブメントの頂点として、テクノ・ムーブメントの大いなる結果として存在した、クラブ史上、伝説となっている、当時としては、まさにあり得ない1万8,000人を富士山の裾野に動員した野外クラブイベント「レインボー2000」についてふりかえってみたい。
1991年から「YELLOW」でウィークリーに開催されていたパーティー「ART」、石野卓球や田中フミヤの活動、「シスコ・テクノ」のオープン、テクノ3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」の合計30タイトルのCDをソニーが3カ月連続でリリースしたこと、ジェフ・ミルズなどのDJプレイを固定カメラで撮影したMXTVによる驚異の毎週一時間番組「ハートビートソニック」、そしてケン・イシイの世界的な大ブレイク。このようなテクノ・ムーブメントの基盤が除々に浸透し、ついに「リキッドルーム」のマンスリー・パーティー「CLUB VENUS」で、それが爆発した。毎月1,000人近くを動員していた「CLUB VENUS」はまさにテクノ・ムーブメントそのものだったといえる。
しかし、そのムーブメントを支えていたのは、既存のクラヴァーだけではなかった。1995年に発売された「プレステ」や「Windows95」の影響も大きかった。「プレステ」のBGMにはテクノが多用され、パソコンの爆発的な普及と共にインターネットも普及、それまでクラブで遊んだことのなかった「オタク」で「マニア」な多くの人たちがテクノにはまり、インターネット上でコミュニティを形成し始め、それまでのカルチャーではあり得なかった、自分たちに最も適したコミュニケーション・ツールとしてのメディアを手に入れ、それを操ることができるようになった。こうして、クラブシーンの中のテクノは、既存のハウスやソウル、HIPHOPやロックといったシーンの中のクラヴァーたちを奪うことなく、全く独自の発展と増殖を成し得たのであった。
そのテクノ・ムーブメントの結果としてのクラブ史上、いや、日本の音楽史上、歴史に残る一大イベントが、1996年8月10日と11日に、「日本ランドHOWゆうえんち」で開催された、日本初の本格的野外大イベント「レインボー2000」であった。現在と違い、この当時、まだまだクラブ人口というのは決して多くはなく、200人や300人を動員できれば大成功というパーティがほとんどという状況の中、毎回1,000人近くの動員をキープしていた「CLUB VENUS」が“化け物”とさえ言われていた時代、「レインボー2000」は富士山の裾野に1万8,000人を動員したのである。しかも、マスコミによる広告など一切なし、全てがあくまでアンダーグラウンドな広報活動によって集まった人数であった。もうこれは、“奇跡”としか思えなかった。
それまでにも、テクノの野外イベントは開催されていた。富士急ハイランドにデリック・メイを招聘して行われた「ナチュラル・ハイ」など、いくつかは存在していたが、「レインボー2000」はその規模があまりにも違っていた。「レインボー2000」は、今まで述べてきたようなテクノのシーンのみではなく、そこにサイケデリックトランスのレイヴ系のシーンも合体させたところに大きな特徴があった。1990年代前期、U.K.で「クリミナル・ジャスティス・ビル」という法律によって、野外パーティ(レイヴ)が禁止となると、U.K.のレイヴァーたちはその“メッカ”であるインドのゴア地方へ大挙して移住した。そこで発展してきたのがサイケデリックトランスであり、そのシーンは年月をかけて地球規模に増殖していた。日本人の中にも、このサイケデリックトランスのレイヴを世界各地で体験してきた人たちが多くいて、彼らは主に、伊豆地方や長野、山梨などを中心に、あくまでアンダーグラウンドなレイヴを開催し続けていた。そのシーンと、テクノのシーンの融合に「レインボー2000」は成功したのである。実はその「レインボー2000」のメインのスタッフというのは、1980年代から現在も続いている、あの「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」を立ち上げ、開催していたスタッフだった。そのため、野外でのイベントは100%慣れていたし、レゲエのシーンのこだわりぬいたサウンドシステムのノウハウで、音も完璧であった。
そして、クラブ系のイベントでは、それまであり得ないことも「レインボー2000」は実現した。環境庁(現・環境省)が後援となったのである。国の協力を仰いだクラブイベントというのは従来、聞いたことがなかったし、想像もしなかった。なぜ、環境庁が「レインボー2000」の後援になったかというと、「レインボー2000」は野外でのイベントということで、環境対策に非常に力を注いだのである。ごみの徹底した分別をはじめ、入口のゲートでは来場者全員にたばこを吸うかを聞き、「吸う」と答えた人には、ソニーから発売されたケン・イシイのミックスCDのジャケットが印刷された吸殻入れケースを全員に配布したり、飲食で使い終わった発泡スチロールのトレイなどを、リモネンというテクノロジーを使って水に分解させたり、会場に空き缶プレス装置を導入して、空き缶をその場でプレスしてリサイクルしやすいようにしたりと、多くの工夫がなされていた。実は、このようなごみ分別のシステムを1992年、「レゲエ・ジャパン・スプラッシュ」において日本で初めて構築したのが、自分で言うのも何だが、僕自身であり、そのシステムを「レインボー2000」でも活用してもらっていたのだ。
さて、1996年8月10日当日、メインの大きな会場・レインボー・グラウンドと、坂の芝生のアンビエント・グラウンド、そして遊園地の中が会場のコズミック・グラウンドと3つのゾーンに分かれた会場で、オープニングを飾ったのが、メイン会場でのDJ FORCEだった。なんと、記念すべき「レインボー2000」のオープニングDJがドラム&ベースだったのだ。そして1万人を超すクラウドで埋め尽くされた会場で大音量で始まった記念すべき一曲目、それは何とあの「ロッキー」のテーマを大胆にサンプリングしたドラム&ベース・トラックだった。当時、まだまだ、テクノやサイケデリックトランスのシーンの中に浸透してはいなかったドラム&ベースのたたみかけるようなビートに、場内にどよめきが起こった。そして、そのボルテージは一気に高まり、爆発した。その後、石野卓球、オーディオ・アクティブと続き、そして、遂にベルギーから来日したハードテクノの雄、C.J.ボーランドの神憑り的なDJプレイが始まった。何が神憑りだったのかというと、それまで、曇り空で小雨が降り出しそうな天候だったのが、C.J.ボーランドがDJプレイを始めた瞬間、突如、空を覆っていた雲があっという間に消えてしまい、満天の星空にかわったのだ。会場にいた人たちは全員、空を仰ぎ、信じられないという顔をして、口をぽかんとあけ、夜空を見入っていた。すると今度は、なんと流れ星の嵐が!! もう、この世のものとは思えない光景が続いた。そしてさらに、まるでスモークがどこからか出てくる演出があるかのようなものすごい霧が現れ、メイン会場にいた数千人の人たちはまるで狂ったかのように盛り上がり続けた。あのときの光景というのは、今でもはっきりおぼえている。おそらく、あの場にいた人たちはあの光景を一生忘れないのではないだろうか。僕はまさにC.J.ボーランドは神なんじゃないかとさえ思った。
その後、ケン・イシイのライヴや、あのアンダーワールドのステージがあり、アンビエント・グラウンドでは細野晴臣のDJが心地よく鳴り響いていたりした。そして、朝陽が昇ってきて、その光が会場の後ろに大きくそびえ立つ富士山に当たり、まさに“赤富士”の前で、DJプレイしていたのが、当時、サイケデリックトランスの代名詞的存在であったTTT(トウキョウ・テクノ・トライヴ)のKUNIだった。最後、「レインボー2000」のメイン会場の“トリ”を務めたのが、Yo-Cだった。まさにハッピーな選曲で、会場はもうぐちゃぐちゃに盛り上がっていた。何度も何度も繰り返されたアンコール。その最後にプレイしたアンコールの曲が、オランダのハードハウスレーベル「フレッシュフルーツ」のWarp69の「Natural High」という曲だったのを、今でもはっきりおぼえている。正直言って、僕もあの場から帰りたくはなかったし、あのまま、ずっと、あの瞬間が続けばいいなぁと思った。それぐらいハッピーな空間、ハッピーな時間だったし、おそらく、あの場にいた全員がそう感じていたに違いない。
あの記念すべき第1回の「レインボー2000」がなかったら、現在の「フジロック・フェスティバル」も「サマーソニック」も「ライジング・サン」も、そして「メタモルフォーゼ」もなかったに違いない。「レインボー2000」はテクノ・ムーブメントの上に成り立っていた。ということは、前回まで3回に渡って連載してきたテクノ・ムーブメントの歴史がもしなかったら、「フジロック」も「サマーソニック」もなかったことになる。野外フェスティバルの元祖であり、原点である「レインボー2000」。その名前は、“2000年までの虹のかけ橋”であるようにとの願いを込めてネーミングされた。「レインボー2000」はもうないが、「レインボー2000」が築いた野外フェスティバルとしてのかたちは、確実に2000年を超えた現在でも受け継がれている。1990年代中期に起こったテクノ・ムーブメントの結晶の表れ、それが「レインボー2000」という“奇跡”だったのである。
-次号へ続く-