第41回
ムーブメントの起こし方
-テクノの場合-(Part 5)


1994~1995年にかけて、日本全国で地道に、でも確実にそのシーンを形成していったテクノ・ムーブメント。その頂点といえる一つの結果として表れたのが、1996年8月10日と11日に、富士山の裾野「日本ランドHOWゆうえんち」に、当時としては、まさに、あり得ない1万8,000人を動員した、日本初の本格的野外大イベント「レインボー2000」だったということを、前回のこの連載では述べた。今回は、その一つの結果「レインボー2000」をはじめとしたテクノ・ムーブメントが世間に対して投げかけた一つの波紋について考えてみたい。
テクノ・ムーブメントが実際に起こっていった背景には、1991年から「YELLOW」でウィークリーに開催されていたパーティ「ART」、石野卓球や田中フミヤの活動、「シスコ・テクノ」のオープン、テクノ3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」の合計30タイトルのCDをソニーが3カ月連続でリリースしたこと、ジェフ・ミルズなどのDJプレイを固定カメラで撮影したMXTVによる驚異の毎週一時間番組「ハートビートソニック」、そして、ケン・イシイの世界的な大ブレイクなどの歴史があった。そして、1995年に発売された「プレイステーション」のゲームソフトのBGMにテクノが多用されたり、「Windows95」の登場により、パソコンが爆発的に普及し始めると、インターネット上でテクノファンのコミュニティが容易に形成され始め、それまでクラブで遊んだことのなかったような「オタク」で「マニア」な多くの人たちがテクノに関心を示すようになり、その結果、ちょうどその頃始まった、「リキッドルーム」でのマンスリーパーティ「CLUB VENUS」に毎月1,000人近くの動員をなし得たのだった。 そのテクノ・ムーブメントの結果としての、クラブ史上、音楽史上、歴史に残る一大イベントが「レインボー2000」だったのである。この「レインボー2000」が世間に与えたインパクトの大きさというのは、まさに想像を絶するほどであった。開催当日、当然、僕は会場で踊りまくっていて、「楽しかった!!」の一言であったが、このイベントが除々に世間に影響を与え始めてきたことを認識し始めたのは、その年(1996年)の秋ぐらいからだった。「レインボー2000」の会場にいて、確かに一つ不思議に思っていたことがあった。それは、テクノ・ムーブメントを支えてきたテクノ・ファンたちや、サイケデリックトランス好きのレイヴァーたち、そして「オタク」で「マニア」な新しいテクノフリークたちの他に、来場者で意外に多かったのが、新しもの好きな、いわゆる“業界”の人たちだったのである。そう、マスコミやファッション業界の人たちである。
1990年代初頭、バブル景気が一気にはじけ、このような業界の人たちの活躍する場はめっきり減ってしまっていた。1996年というと、時代も不景気に突入し、それがちょうど実感され始めた頃で、“業界”では暗い話しか聞かなくなってしまっていた。しかも、“業界”から何か新しいものを世間に向けて生み出すというパワーさえなくなってしまっていたのである。そんな中、「レインボー2000」が、マスコミを一切使わず、100%アンダーグラウンドで口コミで広がっていたことに、根っからの新しもの好きな“業界”の多くの人たちは触発され、何が何だかわからずに会場に来ていたのである。そのような人たちは服装で一目でわかるし、また、僕も以前は、まさに“業界”の中枢にいたので、とにかく、「レインボー2000」の会場で、なつかしい多くの“業界”の知り合いと再会しまくっていたのである。
1996年の「テクノの熱い夏」が終わると、書店に異変が起こった。テクノを特集する雑誌がにわかに目立ち始めたのである。さまざまな雑誌が「レインボー2000」を一つのきっかけに、テクノについて特集を組み始めたのである。その中には信じられないようなものもあった。ある有名女性ファッション誌も“今、流行っているテクノ”のファッションについて特集していた。そこに載っていたのは、髪をド派手なカラーに染め、濃厚な青のアイラインを入れ、頬にはブラウンのラインをつけ、シルクサテンの光るシャツを着て、ハイヒールをはいている女性のモデルたちであった。僕はそのページを見たとき、一瞬、目を疑い、体が膠着したが、その後は一人で書店で立ち読みしながら、プッと吹き出して笑ってしまったのをおぼえている。そう、その格好というのは、まさに80年代初頭、YMOのテクノ・ファッションだったのである。しかも、ヘアスタイルも見事に当時の刈り上げの“テクノ・カット”そのものだった。ファッション業界の人たちの想像するテクノは、今だ、あの頃のテクノでしかなかったのである。でも、実際にデトロイトテクノなどの今でいうところのテクノに全く触れたことがない人が、今、テクノが流行っているみたいだから、とりあえず、ページにしてみようかといった具合に表現したら、こうなってしまうだろうなぁというのが、容易に想像できたので、なおさら、笑ってしまったのである。当然ながら、実際、クラブのテクノのパーティーでは、そのような格好で遊びに来ている人たちはいなかったし、第一、そんな格好ではあの激しいテクノを踊れるわけがない。
実はちょうど同じ頃、女性ファッション誌の編集をしている友人たちから、たて続けに僕のところに連絡があり、「テクノ・ファッションについて特集をやりたいんだけど…」と相談を受けた。僕は、本当にあの「レインボー2000」に来ていた“業界”の人たちが話題を撒き散らし、マスコミは今、テクノが流行しているからそれを取り上げなくちゃと思っているんだと実感した。そして僕は、そのファッション誌をつくっている友人たちに連日会っていき、テクノ・ムーブメントの本当の真実を説いていった。
1987年の夏、ポール・オーケンフォルドら、ロンドンの4人の若者がスペインのイビサ島を訪れ、バレアリック・スタイルとアシッドハウスに触発され、すぐにロンドンに帰って同様のパーティを始めたこと、それがあっという間に広がってアシッドハウス・ムーブメントが起こったこと、そのムーブメントは急激に大きくなり始め、既存のクラブでは人が入りきれなくなり、野外での開催が増えていったこと、そのような野外でのレイヴは数万人から数十万人の規模に膨れ上がり、いつの間にか「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれ始めたこと、そこでは、デトロイトテクノの代名詞、デリック・メイの「ストリングス・オブ・ライフ」がかかりまくり、そのムーブメントにおいてテクノが主役になっていったこと、それらは80年代のU.K.のサッチャー政権による画一的なライフスタイルの押し付け(デザイン、ファッション、マスコミなど)に反発したカウンター・カルチャーであったこと、だから、テクノで踊るときの格好というのは、Tシャツにジーンズにスニーカーという踊りやすい格好が基本だということなどについて話した。
よって、まさに画一的なファッションを押し付けるファッション誌と、テクノの踊りやすい格好というのは決して相容れるわけがなく、そもそも相反するものだということについて話した。また、U.K.では、レイヴは次第に過激になっていき、警察の取り締まりを受けるようになってしまい、「クリミナル・ジャスティス・ビル」という法律で、野外で踊ることが禁止になってしまったこと、そのムーブメントは、当時、冷戦が終結し、ベルリンの壁が崩壊し、東西が融合したドイツに飛び火し、平和の象徴としてテクノが大きく歓迎されたこと、それが今度はヨーロッパ中に広がったこと、1992年のユーゴスラビア内戦では、セルビア人、クロアチア人、イスラムの3人種の壮絶なる戦いの中、アムステルダムの若者たちが中心となって、テクノのレイヴを戦火の中、開催していき、間接的に戦争を終結させていったことなどについて説明した。
“流行”というのは、文字通り“流れて行くもの”である。テクノは決して“流行”ではない。長い時間をかけて、多くの人たちの多大な努力が積み上げられた、文化そのものなのである。だから、生活の中にきちんと定着するものだし、実際に日本でも定着したのである。このような話を、ファッション誌をつくっている友人たちにしていくと、みんな感動してくれて、涙目になり、そして、ファッション誌でテクノ・ファッションについての特集を組むことはしなくなってくれていった。
ちょうど同じ頃、雑誌の編集をしている友人から一つの話があった。当時、大人気だったナイキのスニーカーの特集本を出すに当たって、その中でテクノの特集を担当してほしいという依頼だった。僕は早速、前述したような話をまたその友人にすると、とても理解してくれ、「それじゃ、そのテクノの本当の歴史についてのページをつくろう!」と、逆に提案してくれたのである。僕はそれならということで、喜んで引き受け、イビサ島から、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」、「クリミナル・ジャスティス・ビル」、東西ドイツ融合、ユーゴスラビア内戦にいたるまでのテクノの歴史について編集した。その雑誌は、当時のナイキのスニーカーの大ブームに乗って、なんと30万部を完売するという偉業を成し遂げた。その雑誌はレコードショップの店員さんたちやクラブ関係者の人たちをはじめ、実に多くの人たちが愛読してくれた。当時、確かにテクノは流行していたが、その歴史を正確に綴った媒体は存在していなかったのだ。しかも、スニーカーが主役の、ふつうのコンビニに並んでいるような、ごくふつうの人たちが読むような雑誌に、そのようなコアなテクノの歴史が載っていたことに意味があったのだと思う。その雑誌が多くの人たちの手に渡れば渡るほど、正確なテクノの歴史が多くの人たちに知られるようになっていったのである。その雑誌の他にも、僕は、実に多くのメディアに、この本当のテクノの歴史を発表していった。1996年の秋、あの頃僕は、大好きなテクノを一つの流行にはしてしまいたくなくて、一つの文化として定着させたいという想いで、必死だった。
-次号へ続く-