第42回
ムーブメントの起こし方
-テクノの場合-(Part6・完結編)


本誌「FLOOR-net」Vol.50(4月号)のこの連載「THINKING EVOLUTION」第36回「自分にしかつくれない一曲が世界を変える!」の中で、1998~2000年にかけてのエピックトランス/プログレッシヴハウスの地球規模の大ムーヴメント以来、世界的クラブシーンの新たなムーヴメントが起こっていないことについて述べ、そんなときだからこそ、自分の手で、自分にしかつくれない、世界を変えてしまうような新しいジャンルとなる一曲をつくってみようという提案をし、そこから一歩進んで、もし、そのような曲がつくれたとして、どのように世の中を変えることができるようなムーヴメントを起こせばよいのか、もしくは、どのようにムーヴメントは起こっていくのかということについて、1994~1996年にかけて、日本全国を圧巻した「テクノ・ムーヴメント」を例にして、約半年間、解説し続けてきた。今回は、その「完結編」として、今まで述べてきたテクノ・ムーヴメントの歴史を総括し、ムーヴメントの起こし方そのものについて述べてみたいと思う。
1991年から「YELLOW」でウィークリーに開催されていた、当時のU.K.の「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の流れによるクラブ&レイヴシーンの音をリアルタイムにDJプレイしていたDJ K.U.D.Oによる革新的パーティー「ART」。「電気グルーヴのオールナイトニッポン」で一般層にテクノ・ファンを増やしていた石野卓球や、自身でテクノ・レーベル「とれまレコード」を立ち上げた田中フミヤの活動。そして、「シスコ・テクノ」のオープン。テクノ3大レーベル「R&S」「ワープ」「ライジング・ハイ」の合計30タイトルのCDをソニーが3カ月連続でリリースしたこと。ジェフ・ミルズなどのDJプレイを固定カメラで撮影したMXTVによる驚異の毎週一時間番組「ハートビートソニック」。そして、ケン・イシイの世界的な大ブレイク。
このようなテクノ・ムーヴメントの基盤が除々に浸透し、ついに「リキッドルーム」のマンスリーパーティー「CLUB VENUS」で、それが爆発した。毎月1,000人近くを動員していた「CLUB VENUS」は、まさにテクノ・ムーヴメントそのものだったといえる。しかし、そのムーヴメントを支えていたのは、既存のクラヴァーだけではなかった。1995年に発売された「プレステ」や「Windows95」の影響も大きかった。「プレステ」のBGMにはテクノが多用され、パソコンの爆発的な普及と共にインターネットも普及、それまでクラブで遊んだことのなかった「オタク」で「マニア」な多くの人たちがテクノにはまり、インターネット上でコミュニティを形成し始め、それまでのカルチャーではあり得なかった、自分たちに最も適したコミュニケーション・ツールとしてのメディアを手に入れ、それを操ることができるようになった。こうして、クラブシーンの中のテクノは、既存のハウスやソウル、HIPHOPやロックといったシーンの中のクラヴァーたちを奪うことなく、全く独自の発展と増殖を成し得たのであった。そのテクノ・ムーヴメントの頂点といえる一つの結果として表れたのが、1996年8月10日と11日に、富士山の裾野「日本ランドHOWゆうえんち」に、当時としては、まさにあり得ない1万8,000人を動員した、日本初の本格的野外クラブパーティー「レインボー2000」だった。
こうして、テクノを基盤に、全く新しい、そして既存のクラブシーンとは桁違いに規模の大きい、世界標準の本格的なクラブシーンが日本に出来上がった。今のトランス・シーンも、プログレッシヴハウス・シーンも、そしてドラム&ベース・シーンも、まさに、このテクノが築き上げてきた、本物のクラブシーンの上に成り立ってきたといえる。「さいたまスーパーアリーナ」で年に一度開催されている日本のテクノの祭典「WIRE」や、野外でテクノを年に一度堪能できる「日本ランドHOWゆうえんち」で開催されている「メタモルフォーゼ」などが、その後も、テクノシーンが存在し続けていることを証明している。
もし、自分にしかつくることができない、新しいジャンルとなるべき曲をつくり上げてしまったとしよう。そうしたら、その曲をなるべく多くの友達に聴いてもらおう。CDに焼く、MDに録音する、ネットで送る、手段は何でもいい。一人でも多くの人たちにその曲を聴いてもらう努力をする。そして、その曲にMIXしやすいような曲を数多くつくり続ける。一曲でも多くつくることができたら、今度は、はじめは小さな“ハコ”でもよいから、クラブを借りてパーティを開いてみる。最近のクラブは平日でもプロのDJがブッキングされていることが多い。クラブが無理そうなら、フリーのスペースを探して借りて、自分でスピーカーなどのサウンドシステムを用意して、パーティをやってみる。この方法のほうが、クラブの店側との交渉などのわずらわしさがない場合もある。ただ、注意しなければいけないのは、ドリンク類の準備と、音が外に漏れて騒音になっていないか、そして、来場者が近隣への迷惑にならないように最大限、努めるということである。フライヤーをつくって配布したり、チケットを自ら用意したり、はじめはそれなりのコストも発生するが、赤字を出さないために、一人でも多くの友人たちに来てもらうために努力をしなければならない。この時、友達の有り難さというものを身にしみて実感するだろう。協力してくれている仲間、パーティに来てくれる友人たち、そういう人たちとは自然に、生涯の友となっていくはずである。
実はテクノも、個人個人がこうしたパーティを開いてきた、一つ一つの努力の積み重ねの連続によって、そのムーヴメントは起こったし、シーンとして存在してきた。クラブシーンというのは、メディアやレコード会社がその利益のために仕掛けて行うものではなく、このような個人個人の活動によって成り立つものなのである。テクノがなぜ、今だにそのシーンを存在させているのかといえば、前述のような個人個人の活動がメインにあり、その活動を補完するという位置づけで、ソニーのCDリリースやテレビ番組などの、マスメディアやレコード会社の関与があったからだといえる。実は、これがシーンをつくる、ムーヴメントを起こす上で、最も重要なポイントなのである。何かが起こり、人が集まり出すと、企業はそこに利益のにおいを感じて接触してくる。ここで大事なのは、そのムーヴメントの主体を決して企業にしてしまわないことだ。あくまで主体はそのムーヴメントを起こしているアンダーグラウンドな個人個人であらねばならない。まだまだ日本のメディアをはじめとした企業の中には、そのような動きを流行ととらえる人たちが多い。文字通り“流行”とは、“流れて行く”ものである。しかし、クラブシーンとは、決して“流れて行く”ものではない。長い時間をかけて、多くの人たちの多大な努力が積み上げられた、まさに“文化”そのものなのである。今まで、マスメディアやレコード会社が先導して、自ら潰してしまったクラブシーンというものがいくつも存在する。ジャングル、ハッピーハードコア、そして2ステップなどなど…。
ドラム&ベース界の重鎮、ゴールディーは1995年、U.K.のメジャーなレコード会社「アイランド・レコーズ」と契約する際、シングルの選択、カバーのアートワーク、ビデオクリップの制作など、全てを委託された契約を勝ち取った。その結果、その年に彼が発表したアルバム「TIMELESS」はそのあまりにも高いクオリティで、評論家をはじめ、聴く者全てを驚かせた。過去30年間の最重要アルバムの一つと評され、それ以降、ドラム&ベースは単なるダンスミュージック、クラブシーンという枠を越えて、それ自体「アート」とみなされるようになった。そして、その後もドラム&ベースのアーティストたちはこのゴールディーの例にならい、あくまでメジャーなレコード会社と対等に接し、レコード会社側も、実はこのほうがビジネス的にうまくいくことを理解し、裏方に徹するようになった。まさにメジャーがシーンを補完する関係を成り立たせたのである。その結果、10年たってもドラム&ベース・シーンはアンダーグウンドなまま、大いに繁栄しているのである。
クラブシーンとは、仕事でもなければ、趣味でもないと僕は考えている。クラブシーンとは、生き方であり、考え方そのものだと思う。もし、自分が新しいクラブシーンの音楽のジャンルをつくったとしたら、それを一人でも多くの人たちに聴いてもらい、また、パーティを開いて、その音楽で踊ってもらうのと同時に、そのような音楽をつくる人たちも増やしていかなければならない。U.K.やU.S.のダンスミュージック・アーティストたちはみな、自分のジャンルを確立すると必ず、「オープンスタジオ」、「フリースタジオ」などを開設し、音楽をつくりたい若者たちに、自分がつくった音楽のジャンルのつくり方を教える。こうして、次世代のシーンを担う若者たちが育っていき、その音楽自体、シーン自体を進化させていくのだ。このようなシステム、いや、考え方自体が日本のクラブシーンには欠如している気がする。
約半年に渡って続けてきた「ムーヴメントの起こし方-テクノの場合-」。もし、自分が新しい音楽をつくってしまった場合、「これを新しいクラブシーンとしてムーヴメントを起こしてやりたいっ」と思う志の高い若者がいれば、是非、参考にしてもらいたいものである。今度こそ日本から、世界を圧巻する新しいダンスミュージックのジャンルが生まれることを心から期待している…!