さて、あなたは「ライヴ人間」だろうか?「クラブ人間」だろうか?
ちなみに、僕は典型的な「クラブ人間」だと、自分では思っている。
そもそも、「ライヴ」と「クラブ」の違いとは何だろうか。僕が考えている定義としては、「ライヴ」というのは、バンドやアーティストが基本的にはステージに上がり、観客は皆、そのステージ上のバンドやアーティストを見て、演奏する曲を聴くことをいい、その主役はあくまで、バンドやアーティストであり、観客のその立場は「受動的」であるといえる。
「クラブ」というのは、最近はDJがステージに上がり、まるでアーティストのように扱われているが、元来はフロアにいるクラウドたちを踊らせるための、クラブという空間の一つの手段にすぎないところからスタートしている。いくら、DJがステージに上がろうが、アーティスト化されようが、ライヴのバンドやアーティストのように、一晩中、ステージ上のDJをただ見ているだけのクラウドというのは稀だろう。もし、いるとすれば、例えば、ジェフ・ミルズのような宇宙人的DJテクニックを披露する一部のDJに限られると思うが…。「クラブ」というのは、あくまで、その空間を楽しむことであり、フロアでのダンスのみならず、バー・スペース、チルアウト・スペースなどで、友人たちとゆっくり会話を楽しんだり、セカンドフロアでダウンテンポのミュージックを楽しんだり、その楽しみ方は一つに限定されるものではなく、楽しめるか、楽しめないかは、クラウド個人個人に委ねられており、本人が積極的に楽しもうと思わなければ楽しむことはできないということから、「ライヴ人間」が「受動的」なのに対し、「クラブ人間」ば「能動的」であるといえる。
ライヴでは、ステージ上のバンドやアーティストが「主役」なのに対し、クラブでは、フロアにいるクラウド1人1人、いわゆる、自分自身が「主役」である。ライヴで、ステージではなく、周りの観客を見て楽しんでいる人はいないだろうけれども、クラブは、別にDJやVJだけを見ていなくても、周りの踊っているクラウドたちを見ているだけでも十分に楽しい。それでも、日本のクラブは昔から、なぜか、DJブースのほうを向いて踊る習慣があり、今でもそうなのだが、海外では、みんながDJブースのほうを向いているなんていうことはあり得ない。みんな、思い思いのダンスを、個人個人で楽しんでいるのだ。
もう一つ、「ライヴ」と「クラブ」との決定的な違いがあると、僕は考えている。それは、「再現性」である。ライヴというのは文字通り、「生」そのものであり、その生のライヴはその瞬間にしか存在しない。同じ生のライヴはもう二度と味わうことはできない。それがライヴの醍醐味である。また、そのライヴの場に居合わせた人しか体験できない貴重な一曲なのである。そのライヴで聴いた曲を、そのまま、もう一度、聴く機会というのは限りなく少ない。例えば、後日、ライヴアルバムが発売されるか、次のシングルCDのカップリングに一曲だけライヴ・ヴァージョンとして入っているか、もしくは、ライヴDVDが発売されるか、スカパーやケーブルテレビなどでライヴが放映されるかであろう。だからこそ、その一瞬の感動を味わいたくて、多くの人たちはライヴに訪れる。やはり、同じ曲でも、CDに入っている、スタジオで録音されたものと、ライヴで観客の前で生で演奏されたものとは、全く別のものと言っても過言ではない。しかし、今、述べたように、ライヴの曲は瞬間的なもので「再現性」はない。
それに比べて、クラブはその基本的な形態が「再現性」そのものであるといえる。もともと、DJがレコードをまわすだけのことである。例えば、あるクラブで一つのお気に入りの曲がかかったとする。その曲を求めて、レコードショップへ行く。その曲のレコードが見つかる。そのレコードを買う。うちで、MDウォークマンなどで、もしくは、車の中などで、クラブでかかっていた、そのお気に入りの曲と全く同じものを、どこででも一日中、聴いていることができる。いくら、クラブでDJがミックスしていようが、音を変えていようが、その曲はその曲である。
僕が典型的な「クラブ人間」になったのは、まさに、その「再現性」にハマッてしまったからだった。高校生のとき、一番初めにクラブやディスコに通い始めた頃、クラブやディスコで頻繁にかかる曲があり、その曲をウォークマンで聴いたり、うちのレコードで聴きたいと思い、「シスコ」や「ディスクユニオン」などを探しまくり、お目当てのレコードをゲットしたときの感動、うちに帰って、そのレコードに針を落としたときの、あの一瞬の感動、そして、その曲が流れてきたときの感動、さらに、それをテープに録音して、電車の中や街の中を歩きながら、ウォークマンで聴いているときの感動。この4つの感動が“病みつき”になってしまい、すっかり「クラブ人間」になってしまったのだ。
かといって、ライヴに興味がないわけではなかった。逆に、パンクやヘビメタなども大好きで、よくライヴには通っていた。しかし、僕がハマッていたのは、大貫憲章主宰の「ロンドンナント」や、伊藤政則主宰の「ヘビィメタルナイト」だった。ロックのライヴに行くより、ロックをDJプレイするクラブのほうが、自分には、なぜか、しっくりきたのだ。SEXピストルズやクラッシュ、レインボーやレッド・ツェッペリンの生のライヴはもう体験できないが、レコードでのDJプレイであれば、70年代の当時のあの音で十分に盛り上がることができる。80年代当時、「ロンドンナイト」も「ヘビィメタルナイト」も、新宿にあった伝説のディスコ「ツバキハウス」で毎週開催されており、僕はほとんど毎週通っていた。やはり、ロックはライヴでいうのが基本だとは思うが、ロックをDJプレイするクラブでは、なんと、自分が「主役」になれるのだ。そう、まるで自分がシド・ビシャスやジョー・ストラマー、ジミー・ペイジやジェフ・ベックになったような気分で踊りまくることができるのだ。しかも、ふだんは瞬間性しかない、ライヴがメインのロックで「再現性」が可能なのだ。以上のように、「ライヴ人間」と「クラブ人間」の違いのキーワードは、「主役性」と「再現性」であるといえる。
実はもう一つ、この2つのキーワードの違いが当てはまるカルチャーがある。それは「演劇」と「映画」である。「演劇」は「ライヴ」と同じく、まさに、その公演はその瞬間しか味わうことができない。CDやDVDが発売になったり、テレビで放映される機会は極端に少ないだろうから、ライヴより演劇のほうが、はるかにその貴重性は高いだろう。よって、「再現性」は極端に低いといえる。その点、「映画」は「クラブ」と同じく、まさに「再現性」そのものだといえる。再現することを目的に開発されたのが映画だともいえる。何度でも同じ作品を観ることができるし、ビデオで、DVDで、何度でも同じシーンを繰り返し観て、感動することができる。「主役性」という意味では、演劇は、ステージの上の役者たちが主役そのものであり、観客はそれを観て楽しむ。決して、観客は主役にはならないし、観客もそれを望んだりはしない。しかし、映画は、観客が主人公になりきって、主人公そのものになりきり、興奮したり、楽しんだり、泣いたりするものであるといえる。
こう考えてみると、「ライヴ人間」と「クラブ人間」、「演劇人間」と「映画人間」というのは、意外な共通項がある気がしてくる。「主役性」と「再現性」という2つのキーワードだけでも、これだけ、ぴったりと当てはまる。ちなみに、僕は完全なる「クラブ人間」であり、「映画人間」のパターンであると思うのだが、あなたはいったい、「何人間」だろうか?