第47回
アイドルとクラブシーン Part 1
おニャン子クラブと「セカンド・サマー・オブ・ラブ」


1985年4月1日、月曜日、午後5時。
フジテレビで、ものすごいテレビ番組がスタートした。今でも伝説として語られている「夕やけニャンニャン」である。そこから飛び出してきた素人アイドルグループ「おニャン子クラブ」は、その後の日本の音楽シーンを根本的に変えてしまうパワーを持っていた。
7月5日にデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」が発売され、池袋サンシャインシティ噴水広場で行われるはずだったリリースイベントが、当初500人の来場者を見込んでセッティングされていたが、なんと当日、4,000人を超えるファンたちが殺到し、急遽中止に。この事件がマスコミに火をつけ、おニャン子フィーバーの始まりとなった。おニャン子クラブのメンバーだった河合その子や、高井麻巳子と岩井由紀子のデュエット「うしろ指さされ組」などのソロデビューが相次ぎ、おニャン子フィーバーは過熱。1985年12月27日、金曜日の「夕やけニャンニャン」は、最高視聴率18%という驚異的な数字を記録する。
1986年1月1日発売の新田恵利のソロデビュー曲「冬のオペラグラス」がオリコンチャート女性新人歌手初の初登場第1位を獲得、以後、4週連続1位(以後、4曲連続初登場1位)というものすごい記録から始まり、86年は、全52週中36週、年の69.2%のオリコンチャート1位がおニャン子クラブの曲という快挙を成し遂げた。1986年7月5日には、渡辺美奈代がデビューイベントを、なんと日本武道館に1万2,000人を集めて敢行。これには音楽業界全体がド肝を抜かれた。
そんな人気絶頂の最中、1987年8月31日、大人気のまま「夕やけニャンニャン」が終了。9月20日、国立代々木競技場での「全国縦断FINALコンサート」最終公演にて、おニャン子クラブは解散した。ちなみに、おニャン子クラブのメンバーには、木村拓哉夫人の工藤静香をはじめ、タレントとして大活躍中の渡辺満里奈、女優として活躍している国生さゆりなどがおり、解散後もそれぞれ活躍している。
実は、9月20日がおニャン子クラブの解散記念日ということで、代々木競技場に隣接する野外ステージ前で、1987年から現在に至るまで16年間、毎年、ものすごい野外イベントが行われている。「全国縦断FINALコンサート」のレーザーディスクを大きなモニターに映し出し、「満里奈命」などと書いたハッピやはちまきをした熱狂的なおニャン子ファンが日本全国から結集し、1987年9月20日の夜をそこで再現しているのである。
さて、1987年夏、ロンドンの若者、ポール・オーケンフォルドらは、スペインの観光地・イビサ島を訪れ、そこのクラブでDJプレイされていたバレアリック・スタイルに驚愕し、その年の9月、早速、ロンドンで、自分たちでこのスタイルのパーティを開催し始めた。エクスタシーというドラッグとともに、このスタイルのパーティはアシッドハウス・ムーブメントとして、U.K.中に拡がっていった。既存のクラブだけでは納まりきらず、除々に野外でのパーティ、レイヴ・ムーブメントとして発展していき、それが「セカンド・サマー・オブ・ラブ」ムーブメントとなり、その後、全世界のクラブシーンのみならず、音楽シーン全てに多大な影響を及ぼした。
実は、おニャン子クラブが解散して、代々木競技場隣にて、アンダーグラウンドに野外コンサートが始まった時期と、レイヴムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」が始まった時期とが、ぴったり一致するのである。偶然といえば偶然であるが、この1987年という年は特別な年であり、何かの関係性を感じざるを得ない。それ以後、日本のアイドルは、クラブシーンと密接に歩んでいくことになるのだが、詳しくは次号をお楽しみに!