第51回
アイドルとクラブシーン Part 5
史上最強のアイドル…それは、宮沢りえ


1980年代後半から90年代初頭にかけて、日本中のほぼすべてが、1人の10代のアイドルによって占拠された時代があった。僕の今までの人生の中で、それほど、世の中を圧巻してしまうぐらいの強い影響力を持ったアイドルは見たことがない。それは…宮沢りえ。
ティーンズ雑誌「セブンティーン」の表紙を飾るなり、その人気に火が付き、「三井のリハウス」のテレビCMで大ブレイクした宮沢りえ。マネージャーであるお母さん(りえママ)の卓越した手腕によって、アイドルという枠を超えた活躍をしていく。映画「僕たちの七日間戦争」に出演し、日本アカデミー賞新人賞を受賞するが、そんな名声に左右されず、宮沢りえは1つの“文化”として君臨していく。
それを支えたのは、糸井重里や浅葉克己といった、当時の日本の文化をつくっていた第一人者たちによるバックアップ体制だった。宮沢りえは単なるアイドルではなく、デザイナーやクリエイター、作家やプロデューサーといった、いわゆる業界人をターゲットにした、極めて刺激的な戦略で売り出していったのである。ふつう、アイドルは、一般大衆もしくはアイドルマニアたちに向けて発信することがほとんどだが、宮沢りえは、流行や文化をつくる業界人に向けて売り出していったのである。このことにより、テレビCMや各種雑誌、街頭のポスターなど、軒並みアッという間に日本中が宮沢りえに染まっていった。
そして、宮沢りえは2枚のアルバムをリリースしている。ファーストアルバム「MIU」とセカンドアルバム「CHEPOP」である「MIU」のリリース以前に先行発売されたファーストシングル「DREAM RUSH」はあの小室哲哉の楽曲。TMネットワークを彷彿させるダンストラックだった。驚愕すべきは1990年にリリースされたセカンドアルバム「CHEPOP」。その全編が、実に良質の当時のダウンテンポのハウストラック。アイドルのアルバムを超越した画期的なアルバムだった。当時、流行していた、ダウンテンポのハウスとアンビエントの中間に位置する「グランドビート」を意識した楽曲の数々は、今、聴いても本当に素晴らしい。90年代初頭のあの伝説のクラブ「GOLD」でも、宮沢りえのダンストラックは数々のDJたちにヘヴィプレイされていた。
僕は今だに、宮沢りえを超える、最先端で、かっこよくて、おしゃれで、日本中を虜にしたアイドルを知らない。