WWD ジャパン


表参道を歩いている。マックス・マーラを見る、D&Gを見る。ミュウミュウを、グッチを、そしてマックス&coを見る。エンポリオ・アルマーニ、ミッソーニ、スポーツ・マックス、そしてプラダ・スポーツ。「エスキス表参道」の中のイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ、アレクサンダー・マックウィーン…。気がついたら、表参道で眺めていたブティックのほとんど全てが、ミラノのファッションブランドだったということに驚く。いつの間に表参道はミラノになったのだろうか。表参道だけではない、今や、世界中がミラノファッションに圧巻されている。 華麗で素敵、ラグジュアリーでセクシー。ミラノのファッションは今や非の打ち所がないぐらい素晴らしい。見ているだけでもうっとりするようなものが多いが、その大半のものは実際に袖を通してみないと、脚を通してみないと、肌にじかに触れてみないと、その上質さと至福を味わうことはできない。そのようなミラノのファッションアイテム一点一点を世界中の人たちが手にすることができるのも、イタリア伝統の職人技術に裏付けされた確かなテキスタイルと、洗練されたデザイン、そして、近年のグローバルビジネスを制したブランドのコングロマリット化(複数ブランド戦略)という新しい国際的なマネジメントの成功があってこそと言える。 1980年代、ミラノ・ファッションは、ゴージャスで華麗、そして、上品で保守的というイメージが先行し、川久保玲、山本耀司、ジャン・ポール・ゴルチエといった当時の新興デザイナーたちの勢いに、影を潜めていた。イタリアをはじめ、ヨーロッパの一流ブランドというのは、グッチやフェンディ、プラダにしても、王侯貴族をはじめとする特権階級のための“貴族財”として発展。同族経営によるファミリービジネスがほとんどだった。上流階級がつくる上流階級のための服。これはもう80年代という時代にはそぐわなくなっていた。80年代、「ミラノ・ファッションはもう終わり…」という活字がイタリア国内で出回っていた。ジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチを除いては…。70年代以前、全盛期にはイタリア国内の全産業のうちの実に30%を占めていたファッション産業をどうにかしなければならない。90年代に入り、イタリア政府は国策として、当時のミラノ市長にミラノ・ファッションの活性化を打診した。市長は早速、イタリア・モード協会会長のマリオ・ポゼッリをはじめ、「ヴォーグ・イタリア」の編集長フランカ・ソッツァーニら、多くのイタリア・ファッション界の重鎮たちと協議を重ね、イタリアのファッションの復活のために立ち上がった。 まず、いくらいいデザイナーが、いいアイテムをデザインしたとしても、それを実際に形にするためには、テキスタイル、良い糸をつくる技術、それを良い生地にできる技術、それを縫製する技術がなくてはならない。そこで、当時、イタリアのファッションの低迷により次々と倒産、衰退していたイタリア伝統の製糸工場、テキスタイル工場、縫製工場などを保護し、職人たちが持ち続けてきた伝統的な技術を絶やさない政策から着手した。ファッションとは、洋服一枚一枚の総称である。一枚一枚の洋服をつくることからファッションは始まる。そのためには、一枚一枚の生地を縫う技術、その生地をつくるテキスタイル技術、そして、糸をつくる技術が必要であり、それを可能にするのが、技術を持つ“人”なのである。イタリア・ファッションの再生は“人”がにぎっていると考えたのである。 ちょうどその頃、フランスでは、不動産業で成功を収めていたベルナール・アルノーが、ルイ・ヴィトンをはじめ、クリスチャン・ディオール、ジバンシィ、セリーヌなどを買収、LVMH社としてコングロマリット化、今まで特権階級のものだった一流ブランドを、一般の人たちが持てる新しい時代の流れをつくっていた。さらに、80年代のブラックマンデーや、90年の湾岸戦争により、80年代のデザイナーズブランド・ブームは冷め始め、その中で老舗ブランドのクオリティの高いもの、定番を長く着るという気運が高まってきた。そんな中、1921年に高級皮製品の店として創業し大人気を博すもその後、イタリア・ファッションの低迷の代名詞的存在だったグッチに1995年、トム・フォードがクリエイティヴ・ディレクターとして就任。類い稀なる非凡な才能で、グッチをラグジュアリー・ブランドの代名詞として復活させた。1913年創業の皮製品と外国一流品の店プラダは一時衰退するも、ミウッチャ・プラダの代になると、工業用の防水ナイロン素材をカジュアルなリュックやショルダーバックなどとして販売し、大成功を収め、93年にはセカンドラインのミュウミュウを展開、プラダのブランド力を定着させていた。LVMHが火を付けたブランドブームは世界中に飛び火し、グッチ、プラダも大きな注目をあびるようになった。グッチはイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュをはじめ、アレクサンダー・マックウィーン、ステラ・マッカートニー、ニコラ・ゲスキエールのバレンシアガなどを買収、プラダはジル・サンダー、ヘルムート・ラングなどを傘下に収めていった。 イタリア・ファッションブランドのその爆発的な飛躍を支えたのは、他でもない、前述したイタリアのテキスタイル工場である。いくら、トム・フォードやミウッチャ・プラダが素晴らしい作品をデザインしたとしても、それを実際に形にできる優秀な工場がなければ製品化することはできない。優秀な製糸工場、優秀なテキスタイル工場、優秀な縫製工場、そして、そこで働くイタリアの伝統的な技術を持った職人たち。このような多くの人たちの手によって、初めてグッチの、プラダの素晴らしいアイテムが形になることが可能なのである。90年当時のミラノ市長の考えはずばり的中し、今やイタリアのファッション産業の占める割合は30%を軽く超えている。 この10年でミラノはファッション発信都市として見事、復活を遂げた。その背景には前述したブランドの成功や、国策による工場の保護の他にもさまざまな要因がある。ファッションを生活の一部として、さらに、写真一枚にもアートとしての芸術性を求めたフランカ・ソッツァーニによる「ヴォーグ・イタリア」の影響力の増大、ファッションをビジネスとしてみたリサーチ会社の活躍、アタッシュ・ド・プレスの進化等々、それまでバラバラだった個人主義の街がコミュニケーションを軸にダイナミックなうねりとなったのだ。それでも、10年で世界を圧巻し尽くしているその影にはやはり大きな歪みも生まれている。まず、イタリア政府やミラノ市長が音頭を取り、さらに、イタリア・モード協会会長などがこの改革をリードしたことに象徴されるように、あくまで、このイタリア・ファッションの成功はトップダウンで支えられているという点である。急激な発展を短期間に求めた結果、強力なリーダーシップが大きな力を持つようになり、“上”の決めたファッションの流れに乗らないものはミラノ・ファッションではないという扱いを受けてしまわれかねないという現実が出始めた。もともとがイタリア経済の復興のために始まったミラノ・ファッション改革。多くの工場や職人をはじめ、パタンナーやMD、ファッション・メディアに携わるエディターやライター、カメラマンやヘアメーク・アーティストに至るまで、この改革はあくまでイタリア人のための改革であろうとした。元来、保守的なイタリア・ファッション界は、デザイナーなどの流動的なポジション以外は、地場産業であるファッション産業をあくまでイタリア人で占めていた。それに前述したようなトップダウンという要素が加わり、“上”に媚びて、上にのし上がろうとするイタリア人どうしの醜い争いが起こるようになった。今や巨大なビジネスとなったイタリア・ファッション界での名声は、誰もが手に入れたい願望といえる。それを目指して、多くのイタリア・ファッション界で活躍する人たちが、他人を蹴落としてでも上にいきたいと思うようになっている一面もあるという。今のところは無事、この10年の改革を推し進めてきた多くの人たちの素晴らしい才能のおかげでイタリア・ファッションは全盛を保っているが、内部にはこのような問題も出始めているという。イタリア・ファッションの再生は“人”がにぎっていると考え、イタリアは“人”を保護してきた。現在のミラノ・ファッション、もしかしたら、“人”のこのような欲望によって、内部から崩壊しかねないのかもしれない。ファッションの再生も崩壊も、結局は“人”次第なのである。 さて、では、日本のファッション界はどうであろうか。80年代、川久保玲、山本耀司、三宅一生らがパリ・コレクションに進出して一大ムーブメントを巻き起こし、日本国内でもデザイナーズブランド・ブームが起こったが、90年代に入り、ストリート・ファッションが台頭したものの、ここ最近は再び、有能な若手デザイナーが頭角を現し、復活の兆しは見え始めてはいるが、国際的には東京コレクションは、パリやミラノ、ニューヨークに大きく溝をあけられていることは否めない。海外のジャーナリストの多くも、この点を指摘する。いまいち元気のない日本のファッション界だが、その要因をにぎっているのも、復活の鍵をにぎっているのも、やはり“人”なのだろう。バブル景気崩壊後のデフレスパイラルによって、ものの単価は下がり、多くの商品の値段は下がったが、それと同時に賃金も下がった。企業は製造するものの単価が下がったため、経営的に従来までの利益を守ろうと、安くなった単価の仕事を今までよりも多くこなすしかない。そうすると当然、社員の労働時間だけが長くなる。いくら、たくさん働いても景気はよくならないし、賃金は上がらない。こんなことを10年以上も続けてきた結果、実に多くの人たちが疲れきってしまっている。特に、学生を卒業してからずっとこの状態を味わっている20代、30代前半の若者たちは「社会とはこんなものだ」というあきらめにも似た気持ちを持ち始めてしまっている。労働時間が長いから遊ぶ時間もない。充電をする時間がない。充電ができないから、放電することができないのである。ファッションとは元来、楽しいものである。消費者がお目当ての洋服を買うとき、それはワクワクして楽しいものだ。ある種、小さな幸せを得たいために洋服を買う。その洋服を作る人たちが楽しんでいなければ、人を喜ばせる洋服など作れはしない。ファッションとは人に幸せを与える仕事である。こんなに素晴らしい仕事があるだろうか。ミラノ・ファッションが大きな成功をつかんだように、その発展の鍵は“人”がにぎっている。日本の今のファッション業界は肝腎の、作り出す“人”が疲れきってしまっているから元気がないのだろう。一人一人が毎日少しづつでもいいから楽しみさえすれば、楽しい、素晴らしい、ワクワクするようなファッションが続々と生まれてくることだろう。川久保玲は、コム・デ・ギャルソンのアイテムは全てテキスタイルから縫製まで全てを日本国内で行うことを徹底している。岐阜や三重の織物工場で日本古来からの伝統の糸や生地を作り、それを使って自らがデザインしたアイテムを形にしていく。世界のどこにもない、日本にしかないその伝統的な技術が世界をうならせ、川久保玲の名を世界に轟かせているのだ。しかし、その昔ながらの織物工場も、ここ数年で三分の一に激減してしまっているという。みな、コストの安い中国などへ発注してしまうため、国内の優秀な繊維工場、縫製工場が次々と倒産に追い込まれているのだ。80年代のイタリアも、まさに同じような状況だったに違いない。しかし、イタリアはいち早く気づいて、国としてこのような工場を、技術を、そして、職人たちを守っていくことによって、イタリア・ファッション界を再生させていった。今の日本にも、まさにそのような政策が必要だろう。川久保玲はNHKの番組の中で、次のように述べていた。「日本国内の織物工場や縫製工場でコム・デ・ギャルソンが作れなくなったとき、それはコム・デ・ギャルソンが終わる時です」。 “人”がファッションをつくる、これは間違いのないことだ。いかにそれに早く気づき、ファッションを共につくる人どうしの良い関係を、あらゆる場面でつくり出していけるかが、ファッション業界の再生の鍵なのだろう。 表参道に日本のファッションブランドのブティックが今以上に数多く立ち並んだとき、それが、日本のファッション業界の復活の時であろうし、また、日本のファッションに携わる全ての人たちが楽しみながら、ワクワクしながら、クリエイティヴにファッションを生み出している時なのだろう。一日も早くその日がくることを願うばかりだ。